カテゴリー:『近況報告』

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風にそよぐ草
神保町の岩波ホールで映画を観てきました。
開演30分前から列が出来ていて満席でした。
アラン・レネ監督の「風にそよぐ草」
レネ監督といえば、私がまだ女優になりたての頃のヌーベルバーグ全盛時代に数々の作品が発表されましたが、若い私には哲学的すぎ、難解でよく理解できませんでした。
それが、今年86歳で撮った作品「風にそよぐ草」のなんと瑞々しく軽快で、モダンで、イキで「大人のための恋愛喜劇」と書かれています。
ヒロインのマグリット演じるサビーヌ・アゼマは1946年パリ出身。
私生活では、アラン・レネ監督のパートナーでもあります。
相手役の初老の紳士ジョルジュを演じるのはアンドレ・デュソリエ。
1946年仏・アヌシー出身。
アスファルトの亀裂に生えている雑草が風になびく様子がバックにクレジットタイトルが流れ、人々の足・足、足音。
中年の歯科医。
彼女はパリの街角でひったくりにあいバックを盗まれてしまいます。
捨てられた彼女の財布を拾う初老の紳士。
ストーリーはそこから始まります。
財布に入っていた飛行機操縦免許の彼女の写真を見て恋に落ちます。
美術、照明、なによりも中年女性の美しさ、艶やかさのクローズアップを見事に映し出すカメラワーク。
私は「なぜひび割れたアスファルトから草がそよいでいるのかしら?」と思い続けて映画を観ていました。
分かりました、ラストシーンで。
制作意欲は衰えず、すでに最新作の撮影も終えているとか。
軽やかで、艶やかで、ウイットにとんだ大人の映画。
『人生の終わり方』・・・は「生きる処方箋」とでもいうのでしょうか。
久しぶりに観た大人の恋愛喜劇でした。
アラン・ レネ監督は人生のパートナー、サビーヌ・アゼマに最大の愛を告白したように私には思えました。
"映画ってやはり素敵です"

新潟フレンズパーティー

都内のホテルで開催されたパーティーに出席してまいりました。
新潟市は市長をはじめ、住民が一体となりさまざまな企画をたて魅力ある都市づくりに取り組んでいます。
当日は「開港都市にいがた・『水と土の芸術2012』での鼎談」を聞きました。
そしてパーティーでは「のっぺ汁」をはじめ、新潟の豊かな食材をふんだんに取り入れた料理のかずかずを堪能させていただきました。今が旬の長芋をつかった「スモークサーモンとながいものロール仕立て」や、そしてなんといっても「おむすび」の美味しかったこと。
これからの新潟は東アジアへ、いえ世界へ向けて発信し、着実に拠点都市として歩を進めています。それには都市住民とその地に暮らす人との対流が重要です。北前船で栄えた港。歴史や文化の見直しと新たな芸術が融合し、地方が「心の豊かさ」を提供してくれます。
私もこの40年、民族学者の宮本常一、民芸運動創始者の柳宗悦の足跡を訪ね新潟に足繁く通っています。ダム建設のために湖底に沈む村にもずいぶんと通いました。佐渡には素晴らしい文化が残されています。
北国は冬が一番素敵です。
"旨いお酒・料理"
「にいがたの冬・食の陣」に出向いてみては如何でしょう。
詳しくはHPで。
新潟の冬の魅力に出逢いませんか?
私のお正月

1月1日、元旦の早朝夜明け前に箱根神社への初詣で私の新年は始まります。真夜中より人も比較的静かでお参りができます。
2011年は多難な年でした。
今もなお終息していない原発事故・・・その爪痕の深さを思うと、体が震えます。東日本の痛みは私たち日本人の痛みです。恐怖や苦しみを味わうことなく、平和に暮らせる日が早くきますように、と祈願いたしました。そして、家族や友人達の健康も。
穏やかな年の始め、神社から芦ノ湖の湖畔を歩きながら、また樹木の中を歩きながら考えました。かつては人々の暮らしの中に当たり前のようにあった文化や、自然の理に適った習慣、四季の移ろいによって美しく変化する国の景観など・・・そうしたものこそが尊く、人々の心の拠りどころであったはずなのに、私たちは知らぬ間にそれらを軽んじてきたのではないか・・・と。
私たち世代は「美しい日本の暮らし」の片鱗を、幼いころに経験してきました。それを次世代に受け継ぐべき大事な使命を担っているのではないかしら。そんなことを思いながらの元旦でした。

2日はいよいよ『箱根駅伝』のスタートです。
私の住む箱根町は往路ゴール、復路のスタート地点です。
大手町からこの箱根町まで。駅伝には毎年ドラマが生まれます。
圧倒的に強かった東洋大学。
新・山の神、柏原竜二選手が自らの区間記録を29秒更新しました。
1年生の時にはゴールし、初々しく笑顔満面の顔が、今年は引き締まり、まさに「山の神」の風格がありました。「昨年のくやしさがあるので嬉しい」(21秒差で2位)と酒井監督は語っています。チームワークの素晴らしさ。"くやしさ"からこの1年の努力は並大抵の事ではなかったはずです。
若者のひたむきさに涙がでます。
3日は早朝、夜が明け始めた6時半ころには町に下りていきます。
もう各大学の応援団が懸命に応援しています。
やはり東京農業大学の姿が際立っています。
昔は「ダイコン」を持っての応援でしたが。
湖畔の観光船の部屋が東洋大学の控え室になります。
監督がインタビューに答えたり、復路を走る選手達が調整したり、キャプテンの柏原選手が皆んなに声をかけている姿を見ながらスタートを待ちます。
そして、8時花火が打ち上げられ選手たちはスタートしていきます。私はいつも交差点のところで応援します。斜め前には文化放送のクルーが実況放送しているので声が聞けます。そして、家でゴールまでを楽しみます。
"今年も感動をありがとう"
4日は恒例の上野「鈴本演芸場」へ。
平成24年正月初席・吉例落語協会初顔見世特別公演『新春爆笑特別興行』。第三部のトリは大ファンの柳家小三治師匠。お正月らしい風情を堪能いたしました。
お正月は『笑門来福』
つらいことがあっても、"笑う門には福来る"
皆さま・・・みんなで乗り越えたいですね、今年を。
そして、佳い年にいたしましょう!
沖縄への旅

沖縄へ通い始めてかれこれ45年がたとうとしております。
きっかけは『沖縄こそが民芸のふるさと』と、柳宗悦の本に書かれていたからです。民芸はもちろんのこと、なぜ私がこんなに沖縄に魅力を感じ、沖縄を訪ねると第二の故郷に戻ってきたかのような安堵感を覚えるのでしょう。
その理由は人だと思うのです。
特に沖縄の女性たちの、辛いことがあっても空を見上げてスクッと立ち続ける明るさとたくましさ。面倒見が良くて、働き者で健康的な気質。そのすべてに強くひきつけられているのです。
12月も押し迫り、明日はクリスマスイブ。
沖縄タイムス「タイムス女性倶楽部」の会に招かれ講演を24日にいたします。
今年は沖縄にとっても政治に翻弄された大変な年でした。
同じ日本人として、心から申し訳なく思います。
沖縄の痛みは私たち日本人全員の痛みです。
沖縄に住む人々が恐怖や苦しみを味わうことなく、平和に暮らせる日が早く来ることを願っております。そうしていかなければならないと念じております。
沖縄は食文化の宝庫でもあります。
沖縄料理の世界は深く優しいです。
たとえば、うちなーぐちの「くすいむん」や「ぬちぐすい」という言葉がありますが、私はこのふたつの言葉を口ずさむと、すっと背が伸びるような気持ちになります。この言葉は、生きることの根っこに食べることがあるということを教えてくれます。そこには感謝の気持ちも含まれています。
生きるために食べる。大切に食べる。命を大事にする。
沖縄が昔から暮らしの基本として守り伝えてきた、こうした言葉を、そして、言葉の奥に秘められた謙虚な生き方を大切に守り、次の世代につなげていかなくてはならないと思います。
沖縄調理師専門学校校長である新島正子先生に、以前、沖縄の食文化についてお聞きしたことがありました。
「苦闘の歴史を経てなお、人々の記憶の底に郷土の味が残っていた。
文化は滅びない。占領されない」との新島先生の言葉は忘れられません。
沖縄には4日間の滞在です。
私を温かく迎えてくれる
美しい島(チュラジマ)
沖縄の(ウチナーヌゥ)
ネーネー。アンマァ。オバァ。
待っていてくださいね。

お逢いしたいです、ユリさん
おばさまが亡くなられてあと少しで13回忌ですね。
とても、とてもお逢いしたくて早朝、箱根の山を下って長野の御代田に向かいました。その日は朝から富士山が美しく、早朝の旅を見つめていてくれました。
あれは25年ほど前のことになるでしょうか。
林道、農道、さまざまな小径に分け入り、とにかく走り続けたあの日。
秋の始まりの信州は、私の大好きな色合いをしていました。
柔らかなモスグリーン、ベージュ、柿色。
日本の秋の色彩の美しさのすべてが目に広がったのです。
そこで日本とは思えない風景がまぎれこんでいる一角に出逢いました。
それがユリさんの農場でした。
お会いした瞬間、私はこの方をずっと知っていたような気がしました。
ユリさんからのお手紙が置いてあるのをみたときは、ラブレターをもらったときよりも喜んでいる自分に気がつきます。
村田ユリさんは、知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけれど、いろいろな分野の方から慕われていた方です。
ドイツをはじめ、ヨーロッパに長くいらっしゃったとのこと。
戦中、戦後の大変な時代を背筋を伸ばして生きてこられた方なのです。

何よりも日本の自然が破壊されていく過程を憂えていらっしゃいました。
あるとき、疲れ果てて夜遅くユリさんの家に着いた時があります。
そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持ちいいわよ。お入りなさい」とすすめてくれました。
こまやかな心遣いが嬉しくて、涙がでるほど感激しました。
ひたすら疲れ果て、ただただ眠りたかったのです。
私は、私たちが出会った頃のユリさんと同じ年齢になりました。
人のために自分の空間と時間をすっと人に差し出せる豊かさなど持ち合わせていません。そうなりたいと願っているのですが・・・。
寒い夜、暖炉に薪をくべ、暖かい火に一緒にあたりながら、ワインを飲んだりおしゃべりをしたり。そんな時ご近所に住む玉村豊男さん、奥さまの抄恵子さんと出会いました。豊男さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。
ユリさんは昼間はほとんどの時間を、長靴をはいてシャツと作業着を着て、手は土にまみれ、額に汗を光らせていました。夕方、シャワーを浴びて宮古上布か芭蕉布か、サックリした風合いの上布の襟を合わせ、背筋をのばして・・・とても美しかったです。
とてもとても、ユリさんにお逢いしたくなり、抄恵子さんにお願いしてしまいました。「おばさまのお家に連れていって」・・・と。そして、ユリさんのスケッチブックをいただいてきました。

夜は玉村さんの家に泊めていただき豊男さんの料理、そしてご自身で丹精込めて作られたワインをいただきました。
嬉しかったです。
ありがとうございました。
ユリさん、『もう一度お逢いしたいです。』
地域活性化に向けた食と農のあり方
先日、山口県周南市で第23回全国農村アメニティー・シンポジウムが開催されました。私は『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』と題してお話をさせて頂きました。その後はシンポジウムにも参加いたしました。
ふれあいセンターに着くと、地元のお母さんたちが温かく迎えてくださり、彼女たちの手づくりの美味しい料理の数々が並び「浜さ~ん!久しぶり!」と声をかけられ嬉しかったです。

この20年近く、私は地域で活躍する農村の女性達を応援してまいりました。私の役割は、生産者である農山漁村の人々に「がんばってください!」とエールを送ることであり、また消費者である都会の人々とのパイプ役になることだと思っております。
「食は命」であり、暮らしの原点であり、文化です。
女性はその担い手であり、守り手といえるのではないでしょうか。
日本のさまざまな場所で女性たちが、それぞれひたむきに活動してきました。
郷土料理の復活、地域の食材を子供たちの給食へ、老人センターや地域の病院から委託を受け、加工品を納入したり、また都市との交流・活性化にむけファーマーズ・マーケット運営など20年前には考えられないほどです。
女性の繋がりは縦ではなく、横の関係です。
「この指とまれ!」方式です。
「こう思うのだけれど」
「それ、いいわね」
「こっちはどう?」
平等な位置関係で思い思いに話しを進めていきます。
けっして声高に語られることはありません。
自然と向き合いながら、彼女たちは作るものに惜しげもなく手間ひまをかけます。無理に背伸びをしない、身の丈にあった等身大の活動です。だから私は尊敬できるのです。
私たちにとって、もっとも大切な「食」が、今、揺れています。
TPPはどのような方向に行くのでしょうか。
30年、50年先、いえ100年先を見すえて議論してほしいと思います。

今回のテーマである『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』という観点で考えると、村おこし、町おこし運動は、上の人から押し付けられるものではなく、その村、町が再生するための「宝」は人、風景、事象も含めて今自分たちの暮らしているその「場」にあると思います。
自分達の生まれ育った地域を深く愛し、「この村、町を滅ぼさせない」・・・という強い目的があれば必ずその「宝」は見つけられると思っています。そんな話をさせて頂き、素晴らしい町づくりをしてきた全国10ヶ所を、写真をお見せしながらご紹介しました。

最後にご紹介したところは福島県飯館(いいたて)村でした。
この村は「魅力ある人が行う農業は、魅力ある農業を育む」という信念のもと、他とは違う快適な農村環境の中で「愛情」と「信頼」で結ばれ、活力ある村づくりを長年なさっていらした村です。私は何度もお訪ねしました。
ご承知のように東日本を襲った最大の地震。
そして、福島第一原発事故で、村が計画的避難区域に指定されました。地域共同体は今もしっかり生きていますが、故郷を離れざるを得ない村民の方々の現実。かけがえのない多くの人命と営々と築きあげた暮らしが一瞬にして失われ、数十万もの人々が被災しました。今までのご苦労を思う時、胸がはりさけそうになります。
今回のシンポジウムでは山口からの発信として素晴らしい活動をしている周南市の事例も伺い、改めて「食・農」のあり方を考えました。
「美しい日本の暮らし」を求め、私の旅は続きます。
『訪ねちまった中也の故郷』
日経新聞夕刊(11月2日)に詩人・中原中也のことが掲載されていました。
かねがね訪ねたかった「中原中也記念館」
先週小倉での仕事の後、また"寄り道"をして私も「訪ねちまった」のです。
新山口からJR山口線に乗り湯田温泉で下車。
記念館は中也生誕地にありました。
中也の生家は広い敷地をもつ大きな医院だったそうですが、火事で茶室と蔵を残して焼失してしまい、記念館はその生家の敷地の一部に建っています。
入り口には中原家の庭にあった木が残されていました。

小雨降る日でしたから、かえって落ち着いて拝見できました。
バッグの中に「私はその日人生に、椅子を失くした」をしのばせていました。
(鑑賞解説・高橋順子/小学館)
傷つきやすい魂は、中也節とよばれる。
独特のリズムに乗って、喪失の海をさまよう。
やさしく、やるせなく、時に残酷に。
と書かれています。
記念館には中也の遺稿や遺品を中心にさまざまな貴重な資料があります。
繊細すぎる心と体。30歳の若さで世を去ります。
中也自筆原稿を読み、ようやく私の中の中也が浮かびあがってきました。
かねがね不思議に思っていたことがあります。
中也が眠る中原家の墓石の文字を中学2年の中也が書いたと言われています。
「なぜ中学生の中也が書いたのかしら?」
それも分かりました。
資料館にある中也の文字の美しさ。
きっと大人より美しい文字を中也は書いていたのでしょう。
『帰郷』も好きな詩です。
ああ、おまえはなにをしてきたのだと・・・
吹き来る風が私に云う

記念館を後にし、中也の眠る墓に行きました。
車で10分ほど行くと 「中原家累代之墓」がありました。
お参りをすませ竹林のある小道を歩いていると手押し車のおばあちゃんとすれ違いました。
中也の故郷・・・をからだごと感じた"寄り道"でした。
九州私立保育園研究大会
先日、「九州私立保育園研究大会」が小倉で開催され、
お招きをいただき講演がありました。
大会テーマは「生命(いのち)のつながり 家族の絆」
~誰がまもる 子どものいのち~
九州・沖縄から1100名の方々が集まり、分科会に別れさまざまなテーマで議論がなされました。
私は「生命のつながり~今、私たちにできること~」と題し、
農や食を通しての子供たちの環境や、私たち大人に何が
出来るかなどについて話しました。
『子どもは国の宝』
国の未来の宝である子どもの豊かな育ちを支えることが、とても難しい環境にあることも学ばせていただきました。専門職集団の現場の声を伺い、利益を優先させる市場化、産業化の中での子育ては難しいとも思いました。
この度の「東日本大震災」では保育関係者の方々が命がけで子どもたちの命を守り、そして今も大変困難な状況の中で懸命に保育を継続してくださっています。
あらためて「人の絆・そしてコミュニティー」のありようを考えさせられました。
かつてのように地域での子育て、大家族ではない中での子育て。
子育て中のお母さんたち"がんばって"・・・とエールを送ります。
そして、日々、保育に携わる先生方に改めて敬意を表します。
北九州での素敵なご縁に感謝申し上げます。
直島・瀬戸内アートに暮らす人々
10月初旬、雑誌「サライ」の「瀬戸内の国宝と美術を巡る旅」(11月10日発売)の2泊3日の撮影の際に「直島」にも行ったのですが、「地中美術館」だけのわずかな滞在で、どうしてももう一度直島に行きたく、仕事で岡山に行った帰りに足をのばしました。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島、直島。
現代美術と自然、そこに暮らす人々がアートしているのです。
高齢化、過疎に苦しむ島々が多いなかで、ここの人々(特にお年寄り)が元気なのです。
岡山駅からバスで宇野港まで約50分、そこから船に20分乗ると直島に着きます。驚いたことに海外からの人が多く、アメリカ・フランス・オーストラリアとむしろ海外に良く知られているのかもしれません。若い人たちもガイドブック片手に島内を散策しています。

企業(ベネッセ)がこのようなカタチでこの島を見直し「直島にしかない作品」、「観ている人にすべてを委ねたい」との思いでつくられた美術館。
建物はすべて地中に埋まっています。(建築・安藤忠雄)
クロード・モネはじめ現代アート作家の作品の数々。
そして、心に残った「オープン・スカイ」。
きり取られた空は自然の状態で見ることができます。
天候によっては雨が落ちてくるでしょう。
ナイトプログラムで、刻々と変化する雲を45分観ていました。
日没には、壁が光りで染められていきます。
ただただ・・・空を眺めていました。

島のバスに乗り島内を回り、若い人がやっている民家を改装したハンバーガ店でビールを飲み、お年寄りと道端でのおしゃべりをする、そう、皆さん"もてなしの心"があるのです。
人工的に作られた町づくりではなく「人間優先」の島、それが直島でした。自然を大切にしながら現代アートと人が共存する島。こうした環境に配慮した町づくりがこれからは求められていくでしょう。なによりもお年寄りが元気・・・は素敵です。
また、ゆっくりお邪魔し、犬島や豊島にも次回はまわりたいです。
日本列島は本当に美しいです。
その分、「東日本のこれから」に思いを馳せた旅でもありました。
大地の恵み

札幌に住む友人から「じゃが芋」が届きました。男爵&メークイン。
"わ~ぁ美味しそう"・・・と蓋を開けたら、北海道帯広市・美栄町外山農場からのじゃが芋でした。
まず目に入ったのが「ゴムの手袋」!でした。
まあなんて、ご親切に、でもなぜ?
「大地の恵みに添えて 2011 晩秋」と書かれたお便りが同封されていました。
「本格的な収穫期を迎えた9月上旬から長雨に始まり、雨、また雨、そして台風15号とおもうように畑に入れず、収穫作業に苦戦を強いられました。乾いた土から堀り起こすじゃが芋とは異なり、土付きの多い産物となり誠に恐縮ですが、同封の手袋をはめ、箱の中でよく土を取り除いてください。来年は、じゃがいもの磨き機を導入し、お手数をおかけしないようにしますのでご了承ください。」
と書かれていました。
有機物やミネラルのバランスの良い土作りをされているご様子。
生産者の方の愛情と大地の恵みを有難くいただく私たち、土は付いていて当たり前です。生産者にそんなご苦労を私たち消費者は強いているのかしら。じゃが芋の磨き機の出費をお願いしなければならないのでしょうか?
貯蔵の方法なども丁寧に記されていました。
なんと優しい外山農場の方々。
皆さまはどう思われますか?
私たちは少し土から遠のいておりませんか?
台所が汚れるからかしら。
手が汚れてしまうからかしら?
コロッケ・肉じゃが・ポテトサラダ・グラタン・・・など美味しくいただきました。
外山農場の皆さま!大地の恵みをありがとうございました。
『瀬戸内の"国宝と美術"を巡る旅』
雑誌「サライ」(小学館)の撮影で瀬戸内を2泊3日の旅をしてまいりました。
このごろは時間が許す限り飛行機よりも新幹線。
新幹線よりも在来線で・・・が多くなりました。
"寄り道"の旅が心地よいですし、車内での時間が至福のひとときです。
スタッフとは広島で合流し宮島口からフェリーで厳島神社へと向かいます。
海を渡る風が心地よく、旅の始まりの素晴らしい予感がいたします。

何度も訪れているのに発見はありますね。
前回は、裏の路地のちいさな"もみじ饅頭"のお店を見つけて一休み。外国人も何人かご一緒でした。
旅の発見は裏道にあり・・・が私のモットーです。
今回は、牡蠣のおいしそうな焼ける匂いに誘われて見つけたお店。
さっそく入り白ワインと焼いた牡蠣で乾杯!
なんて・・・国宝の厳島神社のことは「サライ」を是非お読みください。

尾道では、国宝の寺「浄土寺」へ。
ここは映画「東京物語」のロケ地にもなっています。
目の前を山陽本線が走っています。

直島の「直島・地中美術館」
この美術館はかねてから訪れたい・・・と思い続けていた場所です。
自然と融合した、島の人とアートが一体となり、訪ねた人を迎え入れてくれます。現代アートも自然光に優しく包まれていました。
いつか、夢ですがこの島にしばらく滞在し心置きなくこの空間に身をあずけたいと思いました。
美術館の屋外には、草木や睡蓮が浮かぶがモネの庭をイメージして作られていました。約200種類以上の草花が一年中咲き誇っているとのこと。パリ郊外のモネのアトリエも訪ねましたが、直島も素敵です。

倉敷の「大原美術館」
ここにはたくさんの思い出があります。
10代のころからどれほど訪ねたでしょうか。
今回も「エル・グレコの受胎告知」に出逢えました。
悲しいこと、辛くて耐えられないほどの悩みを抱えていた時、幸せに胸を震わせていたころ・・・この絵に支えられました。
最後は道後温泉。「正岡子規記念博物館」へ。
ここは30年ほど前、オープンの時におじゃまして以来、何度か訪ねています。
漱石と子規がどんな会話を交わしていたのでしょうか、座敷に座り想像します。
平安時代に想いを馳せ、また美しい美術に魅せられ、美味しい料理とお酒を堪能。素敵な旅ができました。
詳しくは是非「サライ」をご覧ください。11月10日発売です。
柳家小三治師匠
皆さまは三連休はいかがお過ごしでしたか。
私は日曜日に上野・鈴本演芸場に落語を聴きに行きました。
柳家小三治師匠の追っかけを始めて12年になります。
連休の真ん中、箱根の山から下りるのはさぞ混んでいるのではと思い、新道経由のバスで早めに小田原に向かったのですが、意外にスイスイと着き、新幹線に乗り、東京駅で時間まで少々のビールと一緒に遅いランチをいたしました。
地下鉄に乗り、上野広小路駅の階段を上ると、演芸場の前の道にはすでに長蛇の列。でも、30分並んで座れて聴くことができました。立ち見も出る満員御礼。
鈴本演芸場、新宿末廣亭、独演会にも、可能な限り駆けつけます。
前売り券は電話をひっきりなしにかけ続け、気合でとります。
立ち見で聴くこともありますし、当日券を求めて今回のように窓口に並ぶこともあります。
人生半ばを過ぎてから、これほど胸をときめかせることに出会えるとは思いませんでした。
なぜ、これほど小三治師匠に惹きつけられるのかしら。
心が震わせられてしまうのかしら。
これまで何度も自問してきました。
師匠が登場しただけで、さっとその場の空気の色さえ変わってしまいます。
派手なしぐさもありませんし、見せ場を強調することもありません。
気がつくと落語の世界に心地よく誘われ、そこに人々の姿が生き生きと見えてくるのです。
そしてすするお茶の熱さや風の冷たさまで肌で感じ、人々の暮らしのさんざめきを聞き、夕餉の匂いまで胸いっぱい吸い込んでいるような・・・。
橘連二さんの写真集『柳家小三治 』(河出書房新社)を開いた途端、その答えが改めてわかったという気がしました。
ため息がもれそうに美しく神々しいといいたくなるほどです。
後姿や、膝の上で握られた手の写真に、胸をつかれました。
そう、人間・柳家小三治師匠の深い魅力がにじみでているのです。
だからこそ、その横顔がふっとのぞける"まくら"にも私は魅了されるのでしょう。
たった12年の落語愛好家にすぎない私には難しいことはわかりません。
いえることはただひとつ。
これからも小三治師匠の追いかけはずっと続けるということ。
写真集ご覧になってください。
きっと私のこの想いを分かってくださるはずです。
そして、寄席でお逢いできたら嬉しいですね。
幕が下りるまで、頭を下げ続けていらした姿が目に焼きついております。
美しい日本人の姿、カタチ・・・
素敵な休日でした。
幸せパズル
素敵な映画を観ました。
"日本から一番遠い国"アルゼンチンの映画です。
監督はこの映画がデビュー作となるナタリア・スミルノフ、女性監督のオリジナル脚本。
何気ない日常の暮らし中から見えてくる、女性のふとした戸惑い、悩み喜び。女性監督ならではの機微が表現されていて、2010年のベルリン国際映画祭で「傑作!」と大絶賛を受けたそうです。
パンフレットには
「自分だけの時間が、妻でもなく、母でもない、"本当のわたし"を教えてくれる。」とあります。
南米・アルゼンチンの首都ブエノスアイレス。
主人公のマリアは専業主婦。夫と2人の息子の幸せを生きがいに暮らしている女性。ジグゾーパズルの才能に目覚め生活が一変します。
現代アルゼンチン、およびラテンアメリカ社会の女性解放について 監督のナタリア・スミルノフはインタビューに答えています。
「誰にでも自由は必要で、誰もが正当に扱われなければならない。しかし我が国では未だに、"マチスモ神話"が根強く残り、家庭内暴力が多く、人々の文化や結婚生活に大きく影響しています。
女性が生活できるだけ収入を得て、自立し、大人の人間として生きられる環境が必要です。家族が皆去った後の人生がどれだけ悲劇的か。ひとり残され多くの女性達は50歳を境に発狂するほどの苦しみを味わうのです。情熱の対象をひとつも持っていない専業主婦がたくさんいます。専業主婦であることが間違いではないのに、バランスをとるのは難しいのです。"母親たちが幸せなら、世界はもっと良くなりますよ。"」・・・と。
主人公のマリア(マリア・オネット)は夫・ファン(ガブリエル・ゴイティ)に愛されています。
マリアの微妙な心のひだを完璧に演じています。
表情だけで演じきる主人公マリアに共感し、ひとりの人間の揺るぎない生き方に感動を覚えます。
笑顔が美しい・・・
涙が美しい・・・
ラストシーンはその表情が見られるでしょうか。
小さなことでもいい、自分だけの充足の瞬間を持つこと・・・の大切さを教えてくれる素敵な映画でした。

寒川神社
神奈川県寒川町の教育委員会と青年会議所のお招きで講演会に行ってきました。
寒川・・・といえば「寒川神社」。
まず駅に降り立ち神社に向かいました。

相模川の河口から約7キロ遡ったところに鎮座する神社です。
歴史は古く承和13年(846年)に仁明天皇から従五位下を授かるという記録(続日本後記)があります。
境内は夕方でもお宮参りの赤ちゃんを抱いた若いお母さんやおばあちゃまなどで幸せムードが溢れていました。
私は旅に出て、その地に神社があるとなるべくお参りをさせていただきます。
静謐な中に心が浄化されるようで心が落ち着きます。
そして会場に向かいました。
大勢の方が出迎えてくださいました。
同世代か少し先輩、また50代の方も。
講演のテーマは『明日を素敵に生きるには』です。
以前、歌手の小椋桂さんがテレビ番組のインタビューに答えられておりました。
「人生年を重ねれば、坂道を下りてゆきます。ただ、その道を上り坂と捉えるか、下り道と捉えるか・・・」「もう・・・なのか、まだ・・・なのか」でも違う、と。
私は中学を卒業するとバスの車掌に。そして16歳で女優デビューしました。それからずっと働いて、今に至っています。大学や高校に進学しておりませんので、学校という学び舎で勉強をする機会にはめぐまれませんでした。でも、本や映像、また社会に出てから出会った多くの先輩方から、たくさんのことを学ばせていただくことができたと、思っています。
会場の皆さんと時代を共有してきたからでしょうか、お互いうなずけることがたくさんありました。
『明日を素敵に生きるためには』
これは、誰にとっても、これからの第一のテーマではないでしょうか。
具体的なお話もさせていただきました。
心と体は常に変化し続けています。
限りある命であることを正面から受け止めなくてはならない辛さもあります。
それゆえの深い孤独とも、向き合わざるをえないこともあります。
でも、そうして孤独もつきつめていくと、その奥には、生きていることに感謝する気持ちが隠れている・・・それに私は気がついたとき、それまでよりもいっそう人を恋しくいとしく思えるようになった気がします。
寒川町の皆さま、ありがとうございました。
あたたかく迎えてくださった温もりを今も感じております。
『自分の生命を丸ごと慈しみ、おもしろがり、楽しんでいただきたい』
そんな思いで会場を後にしました。
藤田嗣治~手しごとの家
遅い夏休みをとってパリに8日間行ってまいりました。
ある日・・・箱根のポーラ美術館に「藤田嗣治展」を見にゆきました。
そこで知った「藤田嗣治・手しごとの家」(林 洋子)
藤田の絵画に魅せられたのはいつのころでしょうか・・・。
広島美術館の「裸婦と猫」だったように思います。
今回の箱根での展覧会では「人間・藤田」が感じられ3度も見に行きました。
そこで新しい藤田嗣治に出逢えたのです。
ずい分前にフランス国立近代美術館で見た「カフェにて」は強烈な印象を受けました。日本を去り、フランス国籍を取得し晩年を小さな田舎町で暮らした藤田嗣治・レオナール・フジタ。その藤田の生涯を想うとき、彼ほど暮らしを豊かに、充実させ自ら「手しごと」にこだわった人はいないと思いました。

今回の旅では、パリの下町ラ・モット・ピケ・グルネルにアパートを借り、自炊をしながらの旅でした。日曜の朝、アパートに着きすぐに近くのマルシェで、ハム・野菜・果物を買い近くのスーパーでワイン(赤・白)2本、そしてパンなどを買ってスタートしたパリ。

翌朝、最初に向かったのが"サンジェルマン・アン・レー"
パリから30分ほどの丘。
セーヌの流れとパリが一望できる場所です。
ルイ14世生誕の地。
城や庭園そして続く公園。
この国を終の棲家とした藤田嗣治に想いを馳せました。

そして、向かった先、郊外にある藤田晩年の旧宅・「メゾン・アトリエ・フジタ」
エソンンヌ県の小さな村ヴィリエ・ル・バクル。
迎えてくれた猫からもうフジタの世界がはじまります。
足元に咲く可憐な花。
「ここをどうして知ったのですか?」・・・県の担当係員。
この建物は藤田が死の直前まで君代夫人と暮らした家。
ポーラ美術館で「藤田嗣治の手しごと」で知りました、と答えました。
今は県に寄贈された家をまもる女性が丁寧に案内してくださいました。
けっして大きくはない家、むしろ想像していた家よりはるかに小さな家でした。
表通りからは2層、庭に回ると地下がキッチンに改装されアトリエのある3層建の家。
そのインテリアの多くが本人の手による作品です。
キッチンの下の棚には当時めずらしかった日本の炊飯器。となりには食堂。吊るしてあるランプや棚や陶器などなど。階段をのぼると居間には手づくりのクッション、そして寝室のベットカヴァーも彼の手によるもの。
壁にかけられた画家自身による小作品のかずかず。
最後に藤田のアトリエを目の前にして言葉を失いました。
"美しい"
画材、ミシン、壁に描かれた絵画。
全ての品々には藤田の愛したモノたちが居心地よさそうに存在しています。

空き家となった石造りの農家を1年以上かけて改装して住んだ古い民家。
私の住む箱根の家も古い農家を改装して住みつずけています。
2011年はたくさんのことを考えさせられる年です。
アパートの窓からはエッフェル塔やモンマルトルの丘が遠くに見えました。
今年は『祈りの年』・・・そんなことを考えながらのパリ滞在でした。
残暑お見舞い申し上げます
皆さまはお盆休みはどのように過ごされたでしょうか。
帰省なさった方もいらしたでしょう。
私はどこにも行かず箱根の我が家で過ごしました。
毎朝の山歩きと、荷物の整理をしました。
心と頭の整理が、夜の音楽だとすれば、身体の調整を担っているのは、私の場合、毎朝の山歩きです。ひと晩眠って、前日の疲れがすっきり解消されるのが理想ですが、年を重ねるにつれ、身体がすっきりと目覚める朝ばかりではなくなってきます。
疲れを持ち越してしまう朝があります。でも、山歩きをしているうちに、前日から持ち越した身体のこりや疲れが、不思議なくらいとれていきます。お気に入りの木には、触って「おはよう!」と声をかけ、絶景ポイントでストレッチやスクワットをやって・・・歩いているうちに、心からよけいな澱みたいなものが剥がれ落ち、やがて心も体も活性化してくるのがわかります。
そして屋根裏部屋の片付け。
『必要なものだけを身の回りに』との思いで5年前のリフォームを機に、家を改めて見回したら、子どもたちの部屋はほとんど昔のままだし、袖を通すことのなくなった古いセーターやシャツなどの洋服、小物などがいつのまにかたまっていました。
小さいころの私は長屋暮らしで、余計なものなんて何ひとつありませんでした。生ゴミは裏に穴をほって埋め、使い終わったカレンダーは小さく切ってメモ帳代わりに。鉛筆は持てなくなるまで使いました。物の寿命がつきるまで、使い切る暮らしでした。そうした暮らし方が身についていたので、「捨てる」という行為が、乱暴に思えてなりませんでした。
しかし、子どもたちも巣立ち、静かな暮らしになったというのに、使わなくなったものを抱えていていいものか・・・、60代後半、心身が安定している今こそがチャンス。
2度目の片付けが屋根裏部屋でした。
「わ~ぁ、10代の終わりにギリシャに行った時の写真」
「これはカンヌ映画祭の時」などパネルの数々。
インドに行った時に買った民芸品などまるでタイムスリップしたよう。
子どもたちに手伝ってもらっての整理です。
67歳になり、時は過ぎ行くのだとしみじみ感じます。
思い出は胸の中に。新しい自分に出会うためにも、必要なものだけを身の回りに、そんな思いでの屋根裏部屋の整理をした夏休みでした。
近畿大学・若狭でのフィールドワーク
近畿大学総合社会学部の客員教授として昨年から授業を受け持っています。
前期の担当が私で、後期はイーデス・ハンソンさんです。
「インターンシップ IV」は講義とフィールドワークです。
「暮らしの足元が問われる時代」です。
3月11日から5ヶ月目を迎えました。
東日本大震災は、悲しみとともに、いつもは穏やかに見える自然に獰猛な牙や爪が隠されていること、制御していたと思いこんでいた原発が暴走を始めた時の人間の無力さなど、私達に大きな課題をつきつけました。
私は学生の皆さんに「現場を歩く大切さ」を実感してほしい・・・と思って授業を進めてきました。 頭だけ働かせるのではなく、自ら手足を動かし、全身で生きる喜び、充実感を味わってほしいのです。
理性だけを優先させ、機能性、効率性だけを重視するキカイのような生き方ではなく、感性を高め、美しいもの、美味しいもの、心地よいものに幸せと喜びを感じ取れる生き方をしてほしのです。
「生活革命の時代」を迎えました。
今年も若狭の我が家での2泊3日のフィールドワークをいたしました。
私自身、農村を歩くなかで、そこで抱えている問題を知りました。
若狭の田んぼで10年間米作りも続けました。
そんな体験の中から、IT(情報技術)時代の今日、客観的かつ理論的な視点も欠かせませんが、それだけでは、臨場感や緊張感、あるいは問題の背後に流れる人々の思いなど、大切なものが漏れてしまいかねないと思っています。
学生達が「何を感じたか」感想文をお読みください。
読んだ感想をお聞かせいただけたら幸せです。
そして、この頃思うことは、『政治を司る人たち』には、おおいに現場に足を運んでいただきたいということです。"同じ目線の高さ"に立ち、共に問題と向き合ってほしいと切望します。



波多瑠衣子
この3日間は、本当に自分にとって大きな時間でした。元々、自然や体を動かすことが大好きな私には、ぜいたくすぎました。こんな貴重な体験ができたのも、多くの人のバックアップがあってこそで、いろいろなところを暑いのにもかかわらず、つきっきりで案内してくださった松井さん、アトリエに私たちを入らせて下さった渡辺先生など、たくさんの人の支えによって私たちの旅が出来たと思います。
そして、2日目の夜に地元の農家の人と話せたおかげで、「やまぼうしを近大農園にしよう」というすばらしい案も出ました。私たちの農業をしたいという思いを浜さんが聞いてくださり、自分のやりたかったことへのひとつのステップを踏めたような気がしました。
本当にたくさんの人々に恵まれたこの旅は、この夏の大きな思い出となりました。
久保佑馬
今回のインターンシップの事に関して、自分が感じたこと。それは、「自分のやりたい事」です。大自然にかこまれたこの土地で、本当に農業に携わりたいと思いました。牛のふんのにおいはきょうれつだったし、田舎の暑さを感じました。しかし、ひぐらしやその他大勢の生物の鳴き声がここちよいBGMになり、居心地やすい空間に2日間もいられたことを誇りに思います。現地の農家の松井さんと話したり画家の渡辺さんの話を聞いたりして都会と田舎の違いが、本当に身に染みました。都会じゃ味わえない話、経験、先生の絵の色づかい、全てが本当に自分の中で心に残る経験になりました。このインターンでつちかったことを、一社会人になった時に、少しでも役立つようにこれから大学生活もあと少しですが過ごしていきたいと思います。この旅行を通じて一番心に残っていることはBBQでの松井さんの息子さんとの会話です。自分の考えが正しいわけじゃないが、自分の考え方も一つの考え方なんだと思い、少し安心しました。浜さんと話していた、若狭のやまぼうしでの「近大農園」の一期生として、ずっとこれがつづいていけるように、少しでも役立てるように勉強を続けて生きたいと思いました。
青山昌也
今回のフィールドワークを通じて農業がいかに今後の日本の社会に大切かという事が身近に感じとれる事が出来たが、反対に、いろいろな話を聞いているうちに、現在は若い人がとても少なくなっており、相次いで農業や畜産業が閉鎖されているという現状や、人と人とのつながりのおかげで、集落が守られてきているのだということも分かり、とても良い経験になりました。そして、今後、私達2回目のフィールドワークメンバーを中心に近大農園をどのように進めていけば良いかを考えなければいけないと思っています。
濱田美保子
今回のこのフィールドワークを通して、一番感じたことは、農家のかたたちは、みんなそれぞれ自分のやりかたを工夫しながら農業をしているということです。個人個人は自己流で農作物をつくり、経営のしかたも、つくるものも多様ですが、みんな常に向上心をもってとりくんでいると思いました。自分の努力度が一番目に見えるのが農業だと思うので、意識が高い人が多いと思いました。人と人とのつながりもきっかけがないとなかなか生まれてこないと思うのですが、協力なしにはやっていけない農家では一番深められるものだと思いました。
行田光毅
8月8日~10日にかけて、福井県の大飯町でインターンシップを行った。いざ大飯町についてみると、大自然が広がっていた。やまぼうしも昔ならではの作りで、風情があった。体験学習は大変勉強になった。渡辺淳先生のお話に、畜産農業やきのこの栽培、炭作りをなさっている方々の苦労話など聞くことができた。この体験は、自分の将来の夢に結びつくのではないだろうかと思った。
松井さんにも大変お世話になり、2日目のBBQの時には、若い方の農業に関する話も聞けた。この2泊3日のインターンシップで、自分の視野を広げることができ、本当に参加してよかったと心から思った。
小森健太
やまぼうしにやってきて最初に感じたのは、本当に自然が多いところだなということでした。また、若州一滴文庫を見学した際、作りの趣きはモチロンのこと渡辺先生の指導等に対する考え方、「道具と場を与えているだけ」ということがとても深い言葉のように思いました。
酪農家や野菜農家などは、以前の小せがれネットワークでみたように後継者不足があるようであり、問題点をみてとることができました。
今回のことにより人と人との関わりの大切さとその時代の流れによる薄れというのを改めて知り、当たり前と思っていることこそが、もう一度考え直すべきことであると思いました。
フィールドワークを通して感じたこと
後藤大輝
今回の若さのフィールドワークを通して、若狭の文化や、農業の楽しさ、つらさ、難しさを感じとることができました。
まわりに見えるのはきれいな川と緑の美しい山、そして広い田んぼにはえる稲ばかりで、同じ日本とは思えませんでした。
2泊3日でけっこう時間があるからゆったりできると思っていましたが、たくさんの場所を訪れたのですぐに時が過ぎていき、もっともっとここを知りたい、農業のことを知りたいと思いました。バーベキューのときも農家の人にたくさんの貴重なお話を聴くことができ、とても参考になりました。この貴重な経験を今後の人生に生かしていきたいと思います。
宮田朝衣
今回のフィールドワークはとても勉強になり、楽しくて、だけどくたくたになる程疲れました。教室で黒板に向かって農業や地域の事を学んでも、それは形だけのものであって、それもとてもいいことなのですが、実際に体験するのとでは全く違うなと感じました。
それはいい意味でもありしんどい面もありました。あんなに気持ちのいい風も壮大な滝も田んぼの美しさも味わえるのは実際の現場だけです。しかし、農業の大変さや、若者の少なさを味わえるのも現場だけです。この貴重な経験を必ずこれからは自分の糧にしていくつもりです。
荒木靖彦
僕は今回のフィールドワークをすごく楽しみにしていました。期待通り、自然がいっぱい、というよりほぼ自然しかないようなところで、とても気持ちの良いところでした。
いろんなところに行って、いろんな体験をしました。この体験の素晴らしさを他の人に伝えたいです。しかし自分の撮った写真を見ても、その時の感情とか、写真の外の景色とか、その場の空気は感じられません。このインターンシップでは「現場を歩くことの大切さ」を学びましたが、それさえも現場を歩いて初めて理解することができました。このフィールドワークで、今までの講義のまとめをすることができたと僕は思っています。何より楽しかったです。だからこの思い出は忘れません。学んだことも忘れません。このインターンシップに参加して本当に良かったです。きっとまたこのメンバーでやまぼうしに来ます。
花立智司
二回目のインターンシップですが、去年とはまた違う楽しみや学びを味わえました。松井さんや渡辺さんなど、たくさんの方々と再会でき、農業の話や油絵の話などをたくさん聞き、一緒にお話をして、交流を深めました。特にうれしかった事は、名前を覚えていてくれた事です。
今回は受講生ではなく、つきそいという形で参加しましたが、受講生達を見ると、去年のインターンシップを思い出し、何を学んだか、何を話したかなど、いろいろなことを思い出し、そして今回のインターンシップでは、どんな事を経験したのか、また経験した事をこの先どう生かすかを思い出したり考えたりしたい。
湿生花園は巨大な寄せ植えガーデニング
私の住んでるいる箱根は午前中から蜩が鳴き、虫のすだく声に夏の終わりを感じます。
先日、早朝からの原稿書きもひと段落したので「そうだわ、夏の花を見にいこう」と思いたち、仙石原の「湿生花園」に行ってまいりました。

山の花や植物を見にいらっしゃるのは以前は殆ど女性でした。でもこの頃は中高年のご夫婦が多くなりました。楽しそうに花と一緒に写真を撮ったり、俳句を読んだり、スケッチをしたり、素敵です。
湿生花園は、仙石原地区に位置します。
この仙石原は、江戸時代に「千石原」とか「千穀原」と呼ばれていました。
古文書によると、慶長十六年(1661年)には五名の村人が二町歩余りの土地を耕していて「耕せば、千石はとれる」ということが地名の由来だそうです。今、この地に立つと、昔の人々の苦難がどんなものだったか偲ばれます。
山に囲まれた仙石原は、二万年前は湖の底だったそうです。
川や湖沼など水湿地に生息している日本の植物や、草原や林、高山植物、めずらしい外国の山草も含めて多様な植物が四季折々に茂り、花を咲かせ私はここにくるとえもいわれぬ「至福の時間」を体験できます。

今、ガーデニングが盛んです。この湿生花園全体が巨大な「寄せ植え」だと思ってください。 サギソウ、カワラナデシコ、ミズキンバイ、オミナエシ、ヒオウギ、ウバユリ、ナツズイセンなどなど夏の花がいっぱい。いつ来ても、植物の多様な生命に感動してしまいます。
花や植物のにぎわいに鳥や虫、それからイタチやタヌキやかやねずみなどが棲み、園内に飛来し、まあ、にぎやかに鳴き合います。
箱根に住んでよかったなあ、と、しみじみ思うひとときでした。
植物とふれあって帰る道すがら、もう気持ちが癒されているのを感じました。
金沢への旅
「NHK金沢放送局」の番組出演のため金沢に行ってきました。
昨年放送した「ためしてガッテン 今夜解禁!加賀百万石 涼感超うま新メニュー」を見ながら、その時の料理を担当した老舗料亭「つば甚」の料理長・川村浩司さんとご一緒でした。
新メニューは「夏おでん」
金沢市はおでん屋さんの数が人口あたり日本一だそうです。
知りませんでした。
石川県は食材の宝庫。
ご当地料理といえば「加賀野菜」がかかせません。
「夏おでん」にも加賀野菜がたっぷり使われていました。
私は金沢に行くとまず朝一番で近江町市場へ向かいます。

野菜や魚、もうもう・・美味しいのです。
収録当日の朝も行きました。
なんとばったり料理長と出会いました。
「毎朝くるんですよ」とのこと。
料理人はご自分の目でしっかり確かめ食材を買われるのですね。
私が買った野菜は「加賀太きゅうり」、「打木赤皮甘栗かぼちゃ」、そして大好きな「金時草」。そうそう「ヘタ紫なす」も今が旬です。
「加賀きゅうり」は大きいもので長さ30センチほどもあり、果肉は厚いのですが、やわらかく、食味、日持ちも良く薄くスライスして酢のものや煮物に使います。夏は特にむくみやだるさをとる効果があります。
皆さん、「いしり」ってご存知ですか?これは絶品の調味料。
イカや魚を原料とした「魚醤油」で、能登半島では刺身や煮物の隠し味として使われています。
私も昔、真冬の能登・輪島で鍋料理を食べたときにこの「いしり(いしる)」に出会い、真イカの内臓を使ったたまらない美味しさに感激して、以来、我が家の冷蔵庫には必ず入っています。
今回、川村料理長から新しい食べ方を教えていただきました。
「カルパッチョに一滴たらすと美味しいですよ」
「とうもろこしやカブに一筆さっと塗って焼くとこれも美味しいです」と。
「いしり」には動脈硬化を防いだり、疲労を回復させるアミノ酸が普通の醤油の二倍以上あるそうです。
もちろん「夏おでん」の隠し味にも使われています。
こうして伝統的な製法が今に伝えられているって素晴らしいですね。
今回は収録があるので魚はいつも行く魚屋さんで覗くだけにしました。
のどぐろや甘エビ、メギスも美味しそうでした。

この頃思うのです。
私は太平洋岸と日本海側が体に必要な気がするのです。
豊かな日本の食文化があるから私たちは生きていけるのですね。
素敵な金沢の旅でした。
答志島へ行ってきました

私が初めてこの島に伺ったのは16年ほど前でしょうか。
この島には「寝屋子制度」が日本で唯一残っていると聞いたからです。
「若者宿」
若者宿とは、少年期から青年期にかけて男子が一緒に寝泊りする集団です。
仲間を作り、頼んでどこかの家を宿にし、毎晩そこに寝泊りします。
その宿を提供する家の主人をネヤオヤ(寝屋親)と呼び、寝泊りする子を(ネヤコ)と呼び、血のつながった親子ではないけれど、生涯、親子のように付き合います。
寝屋子が結婚する時は、本来の仲人と一緒に寝屋親も仲人となり、2組の仲人がたつことになります。
なぜ寝屋子制度は出来たのでしょう。
漁業は、板底一枚下は地獄とも言われる危険な仕事。
いざ、という時に、理屈より先に身体が海に向かいます。
事実、私の知り合いの漁師歴50年の山下正弥さんも、荒波の中で奥さんが海に落ち寝屋子に助けられたということです。
この制度は、今も答志島の住民の精神的な居場所であると共に、地域の教育力の基盤となっています。
「無縁社会」が話題になる現代社会ですが、この島は違います。
答志の島に生まれ、育ち、寝屋親をし、海で働き抜いた正弥さんは言います。
「漁業が元気でなければ、この制度もなくなる・・・」と。
学生達と授業を終えて近鉄に乗り鳥羽へ。
フェリーで島まで約25分。
船から降り立つと、磯の香りが漂っています。
古くから、潮流の関係で身の引き締まった魚貝が獲れる"海産物の宝庫"
です。伊勢えびや鮑はもちろん、ちりめんは絶品です。
鮑は海女さんたちの見事な仕事。80代で現役の海女さんもいらっしゃいます。

夕暮れ時、民宿に向かう路地から夕餉の良い匂い・・・。
「懐かしい、子供の頃の匂いだ!」と学生が言います。
私は大阪という大都会で暮らす彼らが「何か」をつかんでくれると思っています。夜更けまで漁師さんの話を聞き、語り合いました。
特に今年は東北・三陸の厳しい現状について、苦しい思いと支援の気持ちについての話はつきませんでした。

翌朝、早朝私はひとり港に行ってみました。
タコツボを磨くおばあちゃん。
真夜中の漁から戻る夫婦。
「今日は鰆が20匹獲れたよ~!」と元気なお母さん。
油の高騰、魚の値下がり、食卓の魚離れなど、被災地でなくても漁業全般にも厳しい一面があります。
島の人々の優しさに触れ、民宿、食堂の美味しい料理を食べ、色々なことに思いをめぐらせながら家路に着きました。

7月11日追記
答志島へのフィールドワークへ参加した学生から感想の言葉が届きました。皆さんがそれぞれ貴重な経験をこの島で得てくれたことをとても嬉しく思います。
荒木靖彦
この島は何か雰囲気が違う。着いたときからそう思っていたが、さっき外を歩いて分かった。この島は静かだ。電車の音も車の音もしない。こういう静かなところにいると、時が進むのが遅くなったような気がする。いや、むしろ時が戻ったような気もする、朝の連続テレビ小説に出てきそうな町だ。「古き良き日本」という言葉が似合う島だと感じた。
後藤大輝
島についてすぐ、知らない島の人にあいさつをされておどろいた。知らない人にもあいさつをするくらいつながりや絆を大事にしている島であるということをあらためて知った。とてもあたたかい島だと思った。
家ひとつひとつにも前に見た2、30年前のビデオに映っていた「マルハチ」のマークがしっかりとあって、この島の文化がまだまだうけ継がれているのがとてもよくわかった。
波多瑠衣子
私がこの旅を通して感じたことは、温故知新の大切さです。今の若い人たちは「日本の特徴は?」「日本の伝統は何?」と聞かれても細かなことは何も言えない気がする。
新しいもの、外国のものばかりについ目がいってしまう。しかし、日本の良い所を知らない人が外のことを知ってもあまり深いところまで学べない気がした。
歴史を知ることは自分につながることで、すばらしいと感じた。
この旅を通して、日本の漁業、農業、酪農の未来に携わりたいと感じた。若い者の力で変えないといけないし、変えたい。
そして、この島にはコミュニティが非常に強く、島民の人たちがキラキラしていた。
久保佑真
いろんな風景を見て都会にはない空気を感じおいしい料理を食べいろんな話を聞き、すばらしい体験をしました。島から人が出て行き、寝屋子制度がなくなってしまうのは本当に避けなければならないことだと思います。こんなにいい島に来れて、いろんなことを感じることができ、本当に良い体験ができました。
小森健太
それぞれの人達が自分達の仕事に誇りを持っているように感じた。
島独特のゆったりとした時間の流れがあると思った。
漁獲量の減少の中で、競りはとても活気があり、地場産業としての漁業のさかんさを感じた。
漁師の人達が植林もしていると聞き、海と山は共に密接な環境においてあると思い、森林を守ることが海を守ることにつながると思いました。そして、実際に目で見て、海もきれいで、緑も豊かであったことが、答志の漁業を支えていると思いました。
平田淳
今回、私は1年ぶりに2回目の答志島に来ました。この1年間でまず変わっていたのが答志島へ行く前の鳥羽の町並みでした。連絡船用の待合室や船着き場は1年前と大きく変化し、モダンな雰囲気の新しい建物に生まれ変わっていました。
答志島では島民の心の暖かさやお互いを助け合う絆の強さ、魚介類の新鮮さ、自然環境などはほとんど変わっておらず、保たれていました。
前回のように、朝6時に島のチャイムが鳴り、夜18時にチャイムがなる以外、時間はゆっくりと過ぎていき、都会と違って忙しさに苛まれることなく、時間感覚を忘れていました。
また他の漁師さんや山下さんの話を聞いて、今の漁業の存続自体が厳しいものになり、答志島の寝屋子制度自体が困難な状況となっている、国を頼ろうにも農業とは違い、支援があまり無いことを伺いました。
それ以外にも1回目に来た時と違って別の観点から答志島を見ることが出来ました。
今回は特に人々の動きと時間の流れを見ていました。
私は今回この旅行に参加した1つの理由として、『原点に戻り、自分を見つめ直す』ことを考えていました。
課題や学部の講義活動、、課外活動、部活での動き、人々の相談にのるなどをしていて、まるで機械の如く日常を過ごしていたので、両親や友人との衝突も絶えなかったので、1度リセットしようと思い、参加しました。
今回、参加したことで少しは自分を取り戻し、リフレッシュ出来ました。
本当にありがとうございます。
花立智司
一年ぶりに答志島に来てみました。あまり風景や雰囲気は変わってなく、のほほんとした所で良かったです。去年答志島に来た時は何もかもが新鮮なので、現場で学べる事が多かったです。今回は新しい事もたくさん学べましたが、二回目なので去年と違う視点で物事を捉える事ができて大いに楽しむ事が出来ました。特に去年より山下さんとたくさん話をする事が出来たのが一番嬉しい事です。
今回この答志島に行く計画をして本当に良かったと思います。
宮田
今まではいつも映像や教科書を使って勉強していて、それで分かったつもりでいたりしたけど、今回初めて教室を出て実際に現地を歩いてみると、教室では絶対に味わえないいろんなものを感じました。山を登るしんどさ、登りきった時の涼しさ、島の幸、人とのつながり、本当に小さい島ならではの、都会では味わえない体験が出来ました。
近畿大学
昨年4月から近畿大学、総合社会学部の客員教授として講義を受け持っています。
前半期、月に2回の講義です。
そして私が最も取り組みたかったフィルドワーク。
机を前にして考えることも大切ですが、机の上の資料には限界がある・・・と常々考えています。
明日の授業は、南日本放送 『やねだん・人口300人、ボーナスが出る集落』を見ながら、集落のあり方、特に今言われている『限界集落』について話し合いをします。
今回のような大震災の津波で崩壊した太平洋沿岸の集落。そして福島原発で避難を余儀なくされて人たち。人間がふるさとへの郷愁、郷土文化への想いなど"人のつながり"を考えます。
そして、昨年同様に授業が終了したら学生たちと三重県答志島に行ってきます。そこには「若者宿」とよばれる「寝屋子制度」が日本で唯一残っているのです。民宿に泊まり学生達との合宿が楽しみです。次回ご報告いたします。
箱根神社

梅雨時の晴れ間の早朝、箱根神社に参拝に行ってまいりました。
箱根神社は私のパワースポットなのです。
最近、若い人の間でパワースポットというのが話題になっているそうです。我が家から歩いて1時間の箱根神社もそのパワースポットのひとつだそうで、いつ行っても若い女性が一心に祈りを捧げています。早朝でも同じ光景を目にします。
箱根に暮らして35年が経ちます。難しいことはわかりませんが、箱根という土地はたしかに人を元気にしてくれます。湖畔を歩き、富士山に手をあわせ、眩しいほどの太陽に祈りを捧げ、箱根神社に伺うたびに心身が浄化され、清らかなものをいただけるような気がするのです。

箱根のわが家は古民家の廃材を用いて家を建てました。
家を建てる材料として選んだ梁や柱のすべてを、私は箱根神社のお神酒で丹念に拭きあげてから使いました。誰から教えられたわけでもないのですが、古民家の廃材を用いて家を建てるにあたり、この土地の氏神様である箱根神社の力で清めていただきたいと願いながら、一本一本自分自身の手で拭きあげました。手も首も煤で真っ黒になりながらの作業でした。
あれから37年がたつのですね・・・。

もし、箱根神社においでのときには、ぜひ御社殿右の安産杉の裏手にあるヒメシャラ純林にも足を伸ばしてください。
私の大好きな場所。
光沢のある幹肌と、優しい雰囲気の樹勢も素敵です。
樹木の間から光りが射し、不思議な明るさと静けさに包まれます。
ある日のランチ
毎週、水曜日はスタッフが全員集まる日です。
私を入れて4名。
その日は朝から庭の掃除、部屋の掃除の日です。
今週は梅雨の晴れ間、汗をいっぱいかきました。
私は草取りや石楠花の花が落ちたので、その掃除。
スタッフのKさんが庭の菜園で採れたハーブ・紫キャベツ、
Rさんはローズマリーを持ってきてくれました。良い香り・・・。
水曜日は皆んなでランチをいたします。
ご飯に味噌汁、干物を焼いたり、時にはパスタや焼きそば。
これからは素麺に大葉、ねぎ、ミョウガなど具沢山で。
今週は札幌から友人がアスパラガスを。
岐阜の仲間からは箱にいっぱいの"美味しい詰め合わせ"。
ふき、桑の木豆の味噌、生そば、ほう葉寿司等など。
嬉しい贈り物。
農・食の仲間の女性達がこうして手づくりのものを送ってくださいます。
日本の食材の豊かさを感じ、心をこめて作ってくださる品々の美味しいこと。
感謝・感謝です。
今週のランチは
お野菜たっぷりのラザニア
ニンジンサラダ(松の実、クコの実とレモンで)
紫キャベツとイタリアンパセリのサラダ
じゃがいもとローズマリィーの温かなサラダ
そしてデザートはいただいたグミの実。
幸せランチでした。
ラザニアは子供がまだ小さな頃、ずいぶん作りましたっけ。

アファンの森を歩いて
長野・黒姫の「アファンの森」を訪ねてきました。
CW・ニコルさんは25年前に荒れた森を再生させるために黒姫に森を購入しました。アファンとはケルトの言葉で"風が通るところ"という意味だそうです。
私が最初にお邪魔させていただいたのが23年程前でしょうか。
彼は生物多様性豊かな森づくりを実践してきました。
森には四季を通じて様々な花が咲き、クマ、ヤマメ、ハクビシン、タヌキ、キツネ、ウサギなどたくさんの動物たちが生息しています。

ニコルさんはおっしゃいます。
「動物でも、生き物は急には病気にはならないのです。小さいばい菌や小さな傷からだんだん悪くなる。治るときも同じです。元気がいいところが少しあったら、そこから少しづつ治るのですよ」・・・と。
初めて森を訪ねたとき私に語ってくださいました。
「美枝さん。木を切って始まる文化もあるけれど、それによって文化を失うこともあるよね。森を失ったら文化は滅びます。」
その時分かりやすく、森の大切さについて語ってくれました。日本の面積の約7割は森林です。原生林はわずか1%、日本列島の太古を語る大切な証言者です。
産業革命は私たちをたしかに豊かにしてくれました。
森はどうでしょうか。
戦のさなかも、木を切り、それを炭に代えて、また無数の家の復興に使い、森は一心に人間に寄与しました。国破れて山河あり。自然に助けられて私達の今があるのだと思うのです。
ニコルさんは1995年、日本に帰化して日本人になりました。1962年、「この国から何かを学びたい、勉強したい」との思いから50年の歳月がたちます。
そして2002年、「(財)C・Wニコル・アファンの森財団」を設立しました。
「森が心をはぐくむ」という(五感)プロジェクトがあります。
目が不自由だとか、心身に傷をもった子供たちも、この森の樹木にふれたり、木に登ったり、みるみる元気になる姿を見ていると、森がその手助けをしてくれるのです。」
森の再生、復元にはたくさんの時間、手間、そして愛情が必要です。
「僕は日本の国を愛しています。でも、ときどき思うのです。僕が愛した日本はこんなものだろうかとも・・・。」
私も日本人の「美意識」は素晴らしいと思い続けてきました。
3万坪の森の再生から始まった小さな「アファンの森」。
今では9万坪の見事な森へと変化しつづけています。
それは、日本の未来の可能性を信じて多くの方々が参加しているからでしょう。
私が訪ねた日は天候に恵まれ山々も美しく、穏やかな風が森を吹き抜けます。燦燦と降りそそぐ美しい森を案内してくれた 「森の番人、松木さん(80歳)」は植林や間伐、花の名前などを教えてくださいました。
今回の散策は財団の支援者9名でした。
10時半スタート。
森の入り口には紅紫色のシラネアオイが迎えてくれます。
アズマイチゲ、リューリンカ、ニリンソウ、エンレイリク、そして可憐なスミレなどなど・・・

『アファンの森は蘇えっていました』
日本の森が蘇えることを願いつつ黒姫をあとにしました。
(財)C・Wニコル・アファンの森財団へのお問い合わせ
〒389-1316 長野県上水内郡信濃町大井43-2
TEL: 026-254-8081
FAX: 026-254-8082
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『近江・京都への旅』
GWの休みを利用し滋賀県・近江、京都を旅してきました。
今回は東日本に想いを馳せながらの旅でした。
京都でワンルームのウイクリィーマンションを借り、自炊をしながらの旅。
京都から近江へは電車が便利なので、毎日通いながらのコースでした。
まず最初に向かったのは、琵琶湖の北部に位置する竹生島。
この島は古より神の棲む島として崇められ、西国三十三ヶ所の
霊場・「宝厳寺」があり多くの人々の信仰を集めています。
京都から東海道本線(琵琶湖線)に乗り、長浜からは船で渡ります。
爽やかな風が湖面を渡り、ひとり旅、のんびりした旅の始まりです。
そして『祈りの旅』のはじまりです。
下船し165段の石段を上り五重石塔、そして「宝厳寺本堂(弁才天堂)」へ。
まさに「祈りの階段」です。
歴史の深さと雄大な景色が心を落ち着かせてくれます。
沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島です。
「深緑竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つにも数えられています。
参拝を済ませ、長浜へ。

彦根から近江鉄道に乗り換え、多賀大社に向かうローカル線をちょっと足を伸ばし「かわべのもり・川辺の森」駅で道草。
無人駅のこの町は気になっていた町でした。
琵琶湖の水を汚さない・・・という思いで、減農薬・無農薬での米作りをしている町です。一面田んぼの真ん中に立つと、その農民たちの想いが伝わってきます。

またローカル線で高宮まで戻り、多賀大社へ。
夕暮れ近かったので人も少なく、うっそうと生い茂る森に囲まれた大社で心ゆくまでお参りができ、清清しい気持ちで京都に戻りました。

翌日は京都から京阪石山坂本線で、日吉大社に向かいました。
比叡山麓に佇む、岩座をご神体とする大社で、秀吉が寄進したとされる大宮川にかかる石橋を見ながら、樹木茂る参道を国宝の本殿に向かいます。
玉砂利を踏みしめながら歩いていると、身も心も清められていくようです。
西本宮から、樹下宮のご祭神である東本宮へ。
比叡の山の神様です。
その建築美に魅せられます。
ゆっくり境内を2時間くらいかけてのお参りでした。
神社から近い坂本ケーブルを15分ほど乗り下車。比叡山延暦寺までは徒歩で約15分。延暦寺から聞こえてくる鐘の音が心を鎮めてくれます。
「根本中堂」では開創以来1200年消えることなく法灯が灯り続けています。
一段低くなっている内陣。
本尊や法灯が目の高さにあるからでしょうか、仏と人が一体になっている感じがし、仏様に抱かれているようです。
はじめて訪ねた比叡山。
帰りのケーブルから眼下に琵琶湖が広がります。

坂本駅からまた京阪で戻り、石山寺に向かいます。
駅から徒歩ゆっくり20分かけて石山寺へ。
歴史の香り漂う 花の寺は藤、山吹、牡丹などが咲く、まさに花の寺です。
淀殿(茶々)が現世と来世の安楽を願って再興したといわれる石山寺です。
紫式部は、この寺で「源氏物語」の構想を練ったといわれます。
創建は奈良時代後期。
本堂のほか、源頼朝が寄進したという多宝塔などが国宝に指定されています。
この多宝塔の建築様式の美しさ・・・。
私がいままで見た多宝塔の中で一番美しい塔だと思いました。
時間のたつのも忘れ佇んでおりました。
ここまでが、近江の旅です。

今回の旅でどうしても行ってみたかったお寺が「神護寺」と「法然院」でした。
まず最初に向かったのは「神護寺」京都駅からバスで高尾山まで約1時間。
朝早いバスで出かけました。
京都市街の北西、愛宕山山系の高尾山の中腹に位置する山岳寺院です。
バスを下車してから石段を徒歩で約20分(350段)上っていきます。
箱根での山歩きに慣れているとはいえ、石段ですから滑らないように気をつけながら、清滝川に架かる高尾橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などがあります。
今回どうしても行きたかったのは、5日間だけ開催されている国宝を拝見できると知ったからです。
虫干しのために1年に1回だけ「源頼朝像」「絹本著色釈迦如来像」など顔を近づけて拝見できるのです。
そして、お坊さまが丁寧に一点一点ご案内くださいました。
唐から帰国した空海も14年間ここで密教を教えていたそうです。
金堂本尊には、像高170センチ、カヤ材の一木造、「木造薬師如来立像」。
唇に朱を、眉、瞳などに墨が塗られ、目を細めたお姿に荘厳さが感じられちょっと緊張いたしました。
周りの新緑が眩しいほどでした。
次回は紅葉が楽しめそうなので秋にまた行きたいです。
ようやく20分歩いてバス停まできたらお腹がすいてきました。
バス停の横の食堂できつねうどんを食べ、町に戻ってきました。
午後は国立近代美術館で開催されている「パウル・クレー」を見に行きました。若い人たちが多く、故郷のスイス・ベルンには何度か行っているので、ドイツで成功したクレーですが、私はやはり自然をテーマにした故郷の作品に惹かれます。「パルナッソス山へ」はとりわけ好きです。
そして、最終日は「法然院」へ。
やはり朝早く出かけました。
法然院は鹿ヶ谷、哲学の道の近くにある浄土宗系の単立寺院です。
茅葺きの山門や白砂を盛った白砂壇が静かに迎えてくれます。
始めて訪ねた寺院です。作家の谷崎潤一郎、哲学者の九鬼周造など文化人や学者の墓も数多くあります。
私が興味を持ったのは法然院貫主の梶田真章(かじたしんしょう)さんの「ありのまま」を読んだのがきっかけです。
総門といっても門扉はありません。
「法然院」と刻まれた石柱が立っているだけです。
竹林からさわさわと笹の葉の鳴る音が聞こえてくる・・・静寂なお寺です。
山門を一歩くぐると、ゆったりと時が流れています。
人もまだ少ない時間。お寺の方でしょうか、庭を掃く箒のかすかな音さえ日常と異なるのです。
境内では音楽やアートなどさまざまな催しも行われるそうです。
運良くその日の朝、梶田貫主さまの法話をお聞きすることができました。
「法然・親鸞の人間観~善人・悪人~」
貫主さまのお話は分かりやすく、心に染みいるお話でした。
そして、今回の東日本の震災にふれられました。
思わず涙がこぼれました。
『生まれる前も死んだ後も、変わらずあり続けている世界のあり方、それを「真理」とも呼ぶのです。私たちは、生かされ、生きているのです』・・・と。
一輪の花を供える旅でもありました。
合掌
映画 『木漏れ日の家で』
「木漏れ日の家で」という映画を観てきました。
岩波ホール、開場まえからかなりの長い列ができていました。
ポーランド映画界から、新たな珠玉の名作が誕生しました。
ワルシャワ郊外の森、木漏れ日の中、91歳のアニュラと愛犬の物語です。
主人公はアニュラと同じ91歳のダヌタ・シャフラスカ出演。
芸歴は83年におよびます。
木漏れ日に一面のガラス窓が輝き、その窓際から外を眺めています。
年老いても瑞々しい感性、ひとりで誇りを持って生きる姿に胸をうたれます。
社会との関わりをもち、時には息子との縁を切っても、この思い出のある建物を守り続け、自らの人生の終焉を迎えます。
モノクロームのもつ陰影が見事です。新鮮です。
今ではそのほうが、はるかに手間がかかるのに。
ラストシーンではじめて「木漏れ日」を通して樹々の優しさに触れた時、はじめて監督のドロタ・ケンジェジャフスカは語っている言葉の意味を理解します。
「アニュラほど前向きで、勇敢で、実際的な人はほんの少ししかいません。また、誠実な(せめて自分自身にたいして)人もごくわずかです。だからこそ私は、一般には敗北者と思われている老いた女性、しかし、人生最後の日々においてすら、他の人々に善を与えることのできる女性について物語ることが、自分の義務であるとおもったのです。」・・・と。
素晴らしい映画を観ました。
ゴールデンウイーク、お勧めの一本です。

近畿大学
明日(23日)から昨年に続き近畿大学「総合社会学部」での講義が始まります。
『現代の先達に学ぶ~自分らしさの発見ー暮らし・食・農・旅がもたらすもの』をテーマに昨年は授業を致しました。特に「現場を歩く大切さ」について学生たちと学びました。
机を前にして考えることも大切ですが、机の上の資料には限界があり、現場を足で歩かない限り見えてこないことがあることを、40年近く農山漁村を歩き回ったフィールドワークから感じた実感です。
現場を歩くなかで、人は一人生きているのではない、多くの人に支えられて生きているのだということを、学生に感じ取ってほしい・・・との願いがあります。
"他者を理解することは、自分を理解すること。"
大地を歩き、人に出逢い、話を聞き、語り合い、その中から見えてくる切実な現実から導きだされた問題解決法にこそ、真の力が宿るということを知ってほしいのです。
フィールドワークでは、伊勢湾に浮かぶ「答志島での寝屋子制度」について学びました。
若狭の我が家では合宿をし、地元の方々と語り合いました。きっと、「何か」をつかんでくれたことでしょう。
今年は日本観測史上最大の地震・津波・原発事故と戦後最大の困難に立ち向かっています。
「共同体」というもののあり方を改めて考えさせられる時代です。
学生たちと「新しい歴史のときに立つ」・・・をテーマに、この美しいキャンパスを港として、みなさん、どんどんフィールドワークに出かけましょう!と呼びかけるつもりです。
明日、どのような学生に出逢えるか・・・楽しみです。

「白洲正子の世界」
世田谷美術館で開催されている「白洲正子 神と仏、自然への祈り」を観てまいりました。
入り口のアプローチは熊野古道から。
生誕百年を記念しての特別展。
亡くなられてとうに13年が過ぎているのですね。
3月11日以来心がざわついていました。
白洲正子が神や仏を訪ね歩いた足跡を辿って自然への祈りを追体験してきました。

「旅の楽しさは道草をくうことにある」と何度も随筆で読みました。
春から夏へ、秋から冬へと移り変わる「日月山水図屏風」は室町時代のもの。
「かくれ里」「十一面観音巡礼」などを拝見すると正子さんほど"旅の名人"はいらっしゃらないと思います。
そんな旅の中で出会った 石仏・観音さま、近江の山河・・・
そして能面のかずかず。
心がほっこりしました。
生前、一度だけ鶴川の白洲邸にお招きいただきました。
囲炉裏端でご馳走になった鴨鍋の美味しかったこと。
そして食事の終わるころ、囲炉裏に香が焚かれたこと。
生涯の思い出です。
公園に出ると桜が間もなく満開になる季節。
人々は桜の木の下で静かにお花見をしていました。

美しい世界を堪能させていただいた展覧会でした。
足元にもおよびませんが、私も旅にでたくなりました。
白洲正子「神と仏、自然への祈り
全国農業新聞写真コンクール
「全国農業新聞写真コンクール」の審査委員を仰せつかって随分とたちます。
審査委員長 写真家の南良和氏
審査委員 映画監督の神山征二郎氏
審査委員 全国農業会議所事務局長の中園良行氏
そして私です。

今年も素晴らしい作品が出品されました。
1枚の写真にその時代の問題提起、活動、そして農村風景から見えてくる人の営みや柔らかな土やお日様の香り、緑の葉に美しく照り映える光、優しく頬をなでる風など、日本は「農の国」と実感いたします。
昨年第27回の大賞は「ばあちゃんは牛が大好き」でした。
撮影者は秋田の五十嵐清光さん。
「旧盆行事を撮りに行った際、知り合った牛好きのおばあちゃん。
3年前まで夫と2人で牛を飼っていたが、今は一人で飼っているとのこと。
黙々と働いている姿がとてもたくましく、また優しく感動しました」
と仰います。
私はこのような講評をさせて頂きました。
「応募された作品のどれもが、農村の暮らしや人々の営みをしっかりとらえていた。中でも五十嵐さんの作品は素晴らしい。夫に先立たれた今も、ひとり、ひたむきに牛の世話をするおばあちゃん。その牛を見つめる目の優しさ、手のたくましさ、背中の温かさ、神々しさ・・・農業を支えてきた人々の聖なる心が表れていると感じた。今、日本の農業は岐路にある。しかし、農業は工業と違う。農業が生むのは命である。おばあちゃんの姿に体現されているものが農業には必要なのだ。この心がこれからも日本の農業や農村、人の絆を守り続けていくことを願いたい」
昨年のコメントです。
日本列島が未曾有の災害に見舞われた東日本大震災。
かけがいのない多くの命と営々と築きあげた暮らしが一瞬にして失われ、あの豊かな大地が、美しい海が、そして動物たちとともに生きてきた場所が・・・
人々の笑顔が一日も早く戻りますように。
そして、私たち一人ひとりが手をたずさえて乗り越えてまいりましょう。
人の絆、そしてコミュニティー
かけがえのない多くの人命と営々と築きあげた暮らしが一瞬にして失われ、数十万もの人々が被災しました。日本観測史上最大の地震であり、第2次大戦直後の困難にも匹敵する災害ともいわれています。
これからもずっと生きていくはずだった多くの人々の無念さ、そしてその家族や友人のことを思うと、その哀しみの重さと深さに胸がつまります。
この小さな島国で、それは私やあなたであったかもしれないのです。
その中で、日本人の行動やモラルに賞賛の声が世界中から寄せられています。他国ならこうした状況下で、混乱に乗じて起きうる略奪や暴力がなく、人々は肩を寄せ合い、礼節を以って互いに助けあっている。
地域共同体が今も生きていたに違いない地域だけでなく、地方の主要都市でもまた、人々は集団を作り、集団が個人を守りつつ、困難さに立ち向かっています。
共同体というものを信じる気持ちが日本人の誰の中にも残されていたということを、はからずも知らされたような気がします。
この国で「人の絆、そしてコミュニティー」は必ず再生できます。
人々の笑顔が輝く日を取り戻すために私たちに何ができるか、ひとりひとりが問いかけてほしいと願います。
東北関東大震災
被災地・被災者の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
この度の「東北関東大震災」において多くの方々が災害に遭われ、
心よりお見舞いを申し上げます。
津波によって町を飲み込まれてしまった人たち。
先日、帯広からの帰りに上空から太平洋沿岸を飛んでまいりました。
眼下に広がる光景は想像を絶するものでした。
瓦礫が一面に広がり、田畑は海水に浸り、被災者の皆さまのことを
考えますと胸が張り裂けそうです。
東北には多くの農山漁村の友人達がおります。
被災者救助をはじめ多くの方々が全力で尽くしてくださっておられます。
その全ての方々に感謝の意を表します。
明後日(土)は大船渡市からのお招きで伺うことになっておりました。
皆さんの安否も本当に心配です。
毛利元就の三矢の訓で「百万一心」という言葉がございます。
この災害に私たち一人ひとりが一致団結して、立ち向かっていきたいと思います。被災地においては一日も早い復旧と、皆さまのご無事を心よりお祈り申し上げます。
浜 美枝
小さな島の小さな挑戦~沖縄・伊是名島
伊是名島(いぜなじま)に行ってきました。

名護・運天港から船で約50分で伊是名島の仲田港に到着。
なんと・・・途中「ざとうくじら」を見ることができました。
沖縄本島の北方、周囲約16km、人口約1600人。
島に着くと暖かな風を感じます。

オジイ、オバアの笑顔。
「まあ~茶でも飲んで」と屋根の先の雨はしの下の縁側にはサンピン茶と黒糖のお茶うけが用意されています。朝起きると「一番に茶を入れる」と話してくださったのは仲田初江さん(80歳)

この島は家に鍵をかける習慣がありません。
村の中を元気に走りまわる子供たち。
「豪華ではないけれど、贅沢ではないけれど暖かい島民の息遣いが伝わる島。この島を旅人が訪れたとき現代社会の中でどこかに置き忘れてきた、落っことしてきた大切なものが見つかるようなな、そんな島づくりをめざします」
(古民家再生プロジェクトを行っているNPO法人・島の風より)
琉球王朝文化、尚円王生誕の地で歴史・文化のある島です。
おもに農業ではサトウキビのほか、各種野菜が栽培され、水産業はモズクの養殖が盛んに行われ、美味しいモズクをたっぷり頂きました。

なんといってもこの島には伝統的沖縄民家がまだまだ残されています。
珊瑚の垣根と常緑広葉樹。
自然との折り合いををつけての暮らしが島民たちの笑顔になるのでしょう。
離島振興法が施行されてから約60年。
このような美しい島でも離島が抱える問題は決して解決していません。
離島人口は2000年にはほぼ半減したと言われますし、高齢化も進行しています。空家もでてきました。老朽化も進んでいます。
そこで始まったのが「古民家再生プロジェクト」です。
変わりゆく島の風景を守り、老朽化し放置されている家を再生し、まず島の人たちが大事にしてきた「暮らし」を維持し、島民の生活やそこに流れるコミュニティーの文化を含め残し伝えることを大切にしながらの再生です。

伊是名島には宝がいっぱいありました。
人、歴史、文化、自然や景観 かけがえのないものばかりです。
はじけるような笑顔の子供たちにつないでいってほしい・・・そして観光客はそっと「おじゃまさせていただく」ことを大切に。

あんまー(お母さん)の普段の食事、美味しかった!!!。
ご馳走さま。
また行きますね。
その時は昔ながらの古民家に泊めてくださいね。
そして「島のこしが島おこし」になりますように。
うたたねの湯・古湯温泉
佐賀市富士町・古湯温泉に行ってまいりました。
38℃ほどの「ぬる湯」が湧く、山あいの静かな温泉郷です。

旅館主、地域住民、商業者の皆さんを中心に行政も一体となり、どうしたら来てくださったお客さまたちに喜んでいただけるか、どのような「おもてなし」ができるのかを官民一体となり熱心に研究なさっています。
そんな勉強会にお招きをいただきました。
温泉地域活性化をテーマに「田舎らしさ」をアピールしていきたい。
地域住民が自主的にまちづくりをしていきたい。と、皆さん本当に熱心です。

旅館の女将会が中心となり、地域の農家と連携し「日曜朝市」も開催しています。千曲荘の若女将・岸川恵女さんは、女将仲間と市内のアロマサロンとアロマオイルを共同開発。アロママッサージの研修も終えてお客様に施術もしているそうです。
佐賀市街から30分~40分くらいで到着。
約2200年前から湯治場として栄え、画家の青木繁や歌人・斉藤茂吉らにも愛されたと伺いました。

当日は佐賀では珍しい雪景色でした。
嘉瀬川沿いに12軒の旅館があります。
15分も歩けば一周できるほどのこじんまりとした温泉地です。

古湯には「もてなしの心」がありました。
歴史も文化もあり、そして何より豊かな自然があります。
とかく日本人はもてなし下手といわれますが、この「喜んでもらえたら嬉しい」という気持ちこそ、本来日本人が昔からもっていたものではないでしょうか。
そして、今回、素晴らしい出会いがありました。
出発するまで宿でコーヒーを飲みながら話をした行政の若者達です。
佐賀市商業振興課の 田代 健二さん、辻田 朋群さん。
佐賀市保険年金課の 菅 祐亮さん
どの地域でも官民一体というのは非常に難しいものです。でも全国を歩いていて感じることは、ネクタイを外し、住民の中に飛び込み情熱をもってその町のために汗をかいている若者達が必ずいるということ。心強いではありませんか。
今回もそんな爽やかな若者達にお会いできたこと、とても嬉しく思いました。
どうぞ、これからも頑張ってください。
そして貴方達が描く「ふる里・古湯」にまた伺いたいです。
伊勢市横輪町をお訪ねしました

この桜、ご覧ください、見事でしょ。
と言っても今年の桜ではなく昨年、見事に開花した横輪桜です。横輪桜は、今から150年ほど前に、集落の桂林寺にあったものを村人が各々の家に持ち帰り増やしていったそうです。特徴はおしべが変化し、花びらになり、開花とおなじくして葉も付き始めるとのこと。花の大きさもソメイヨシノの2~3倍はあるそうです。

横輪町は三重県伊勢市の南部に位置する山々に囲まれた谷あいの隠れ里。人口は97人で、その4割が65歳以上の高齢者です。
「このままでは自分達の地域が崩壊してしまう」
という危機感から立ち上がりました。
「地域を、文化を次世代に継承していきたい」
「経済的に活性化し、若い人達の就労場所を確保したい」
前回ご紹介した周南市もそうですが、こうした気運が全国に広がり始めました。地域の活性化は一朝一夕にできるものではありません。何よりもそこに住む住民の「熱き思い」が大切です。この横輪にはそうした人達ばかりなのです。
その道のりは簡単ではなく、苦難の道のりも「地元を良くしたい、何とかしたい」という強い思いがあったからこそ。この町の石垣の景観は見事です。それは強風から家屋を守るだけではなく、田畑にも多く存在します。よく見ると、石組みの間には風穴があり先人の技がしっかりとあります。しかし、そうした石工もいまではいなくなりこれからが大変です。
「正直、活性化を始める前は辺地であるという劣等感が多くありました。しかし、活性化がマスメディアで報じられると自信につながるのです。最近は「横輪の人達頑張っていますね」・・・と声をかけられると、自信と誇りがもてるようになりました」と皆さんがおっしゃいます。いまでは桜の季節には7万5千人ほどの人が集まるようになりました。
四季を通じたイベントを開催し、横輪の桜まつり、夏にはホタルまつり、秋にはお月見会など、また活動拠点「郷の恵・風輪」もオープン。積極的に情報発信をし、都市との交流も行われています。
「しかし・・・これからが大事です。今は過渡期です」とおっしゃいます。
そうなのです。ゼロからスタートし、来訪者の増加は地域への経済的メリットにとどまらず、耕作放棄地の減少や「景観の保全」「高齢者の生きがいづくり」などにつながります。相乗効果が増加するでしょう。
今回も「美の里コンクール」の審査でお邪魔させていただきました。
その日は珍しく横輪の冬の西風もなく穏やかな一日でした。
横輪のお芋で伊勢うどんや、五平餅も美味しかったです。
風と共に生き、人の手と知恵によって美しい風景が創られてきました。
皆さん住民の方々の"ふるさと"です。
日本中が、熱気を欠き、心の拠りどころを失って、ポカン顔しているような昨今。横輪の方々のいきいきした表情の、なんと眩しかったことか。他力本願せず、おもねず、甘えず、寄り掛からず、人のせいにせず、しっかりと自分達の足で立つことで、「横輪」という誇らしい集落を作りあげてきたのでしょう。
今の日本人に、今の日本に、必要なことはこうした自立のありようだと思うのです。戦後60年、日本が政治・経済・私たち一人一人の意識も変革を求められている今日。
これからも美しい横輪の町が都市の方々との交流の輪を広め"ふるさと"を守ってほしい・・・と願いました。
お伊勢さんへお参り
みなさま~。聞いてください。わたくし、ショックです。
せっかくお伊勢参りをするからには五十鈴川を渡る宇治橋からの朝焼けを見たくて朝4時に起き、神聖な景色と澄んだ空気に感激しながら内宮、外宮と歩き、何枚も何枚もシャッターをきったはずなのに、写っていなかったのです。
原因は...いつもより長めにしていた爪のせいでシャッターが上手に押せていなかったようです。ショックです。
お伊勢さんにお参りをなさった方は、あの美しい情景を思い出しながら、まだの方は想像をなさりながら、今日のブログはお読みいただければ幸いです。
私も近いうちにもう一度、お参りをしにいってまいります。今度こそ。
大寒の20日、夜明けとともに伊勢神宮に参拝してまいりました。
私の母方の祖母は伊勢の出身。幼いころ祖母に手をつながれて「お伊勢さん」にお参りしたことが記憶の奥深くにあります。
ず~っと昔、遥か昔、大和の国。古代にあっては、太陽の昇る地、
それが伊勢の国。
倭姫命はなぜ天照大神を伊勢の地に祀ることにしたのでしょう。
清らかな水の流れ・・・ゆったり、ゆったりと流れる五十鈴川。
その川にかかる宇治橋を渡り、朝日に輝く参道へと進みます。
その前に五十鈴川にそっと手を入れてみました。
そこから眺める上流の景色は素晴らしいです。
宇治橋は、人の世と神さまの聖地をつなぐ橋だそうです。
まぶしいほどに輝いていました。
五十鈴川のほとりに鎮まる伊勢神宮内宮。
長い参道の奥にあります。
三十段あまりの石段を上り、参拝するのは南御門の前。
拝殿はありません。
神さまが住まい、人々が祈りを捧げる社殿。
高床の穀倉を思わせる社殿の前でからだごと、五感の隅々までが清められていくようです。
その前にたたずむと、自然に頭が下がります。
神さまは20年に一回お引越しをなさいます。次は平成25年。再来年ですね。
20年に一度の「式年遷宮」、東から西へ、西から東へと神さまはお移りになられるのです。
神宮の森を抜け参道に戻ると「ここは神さまをお迎えする森なのだわ。木霊が宿っている」とつぶやきました。
9時すぎの参道は人で溢れています。五十鈴川のほとりのカフェで一休み。
陽だまりが暖かく幸せな気分になり、またぼんやりと五十鈴川の流れに見ほれていました。
「そうだ、お昼は牛丼だわ!牛鍋かな・・・」というわけで、早起きしたので11時にはお腹がすいてきました。「豚捨」で「牛鍋とお酒をお燗していただき少々いい気分」、「こんな贅沢していてはいけませんよ!・・でも、去年よく働いたご褒美です」などと言い訳をして神さまの食を司る「外宮」へ。
1500年間、毎日欠かさず1日2回、神さまにお食事を差し上げる祭りがあります。この外宮はJR伊勢駅から歩いて5分ほどです。
外宮は「農業の神さま」でもあるのです。
お供えする食事は原則的には自給自足だそうです。
縄文時代後期に日本に伝わった稲作文化。
でも私達の食習慣は大きく変わりました。
米の消費量はますます少なくなってきました。
高度成長期がもたらした食事の変化。
でも、この外宮では神職が1500年変わらず神さまに差し上げておられるのです。「米は神さまからお預かりしたもの」といわれます。
森の木々、石には人知を超えた何かがあります。耳を澄まし、触り、小声で話しかけると応えてくれます。それが"お伊勢さん"なのです。
最後に五十鈴川の河口から白砂青松の浜へ。夫婦のように二つの岩が並ぶ「夫婦岩」は「岩の鳥居」の役目をはたしています。二見浦はあまりの美しい景色に倭姫命が名残惜しく、二度も返り見られたことでついた名前といわれています。
私の伊勢神宮参拝は全て逆のコースでまわりました。
でも、宇治橋から伊勢湾に浮かぶ夫婦岩まで、心おきなく大和の国を旅させていただきました。
日本人の旅の原点、お伊勢参りができました。
この記事をご覧いただいたブログの読者の北本朋子さんが、昨年に伊勢神宮へ行かれた際のお写真をお送りくださいました。
北本さん、夜明けの鳥居、五十鈴川など・・・本当に素敵な写真をありがとうございました!

美しい棚田
すり鉢状に広がる棚田。山口県周南市中須北集落にお邪魔してきました。
5集落全住民を会員として「棚田清流の会」が平成13年に発足し、
"やすらぎの里づくり~くらしがいをみつけられる郷へ~"を実践しています。
「なんて美しい棚田なの」・・・と思わず声がでました。
村の方が「ここは基盤整備していない自然の棚田ですよ」と教えてくださいました。先人のご苦労がしのばれます。
この美しい集落は農林水産省と農村開発企画委員会主催のコンテストで選ばれ、我々も現地調査でお訪ねしました。「美の里づくりコンクール」以前の「農村アメニティーコンクール」をあわせると今年で26年目を迎えます。私は1回目からの審査員をおおせつかっておりますから、随分と全国の農山漁村をお訪ねしていることになります。
標高300メートルの中山間盆地。
5つの集落は、幾重にも広がる田んぼで結ばれています。
「ご先祖さんから受け継いだすり鉢の米づくり、不便と言やぁ不便だが昔しゃこれが当たり前。米が実のりゃ苦労も癒える。うまい飯にゃぁ幸せ宿る」・・・と。住民の暮らしや農地を自らの手で守る、つまり自主活動なのです。
「中須の棚田自然米」のファンが増えているそうです。米の名前は中須にひっかけて「泣かす米」だそうです。なかなかウイットがあり素敵です。
都市交流やオーナー制度も導入されています。「若手が(といっても50代・60代)生産グループに加入し世代交代が円滑に進んでいますよ」とおっしゃるリーダーの佐伯伴章さん(51)の本業は獣医。兼業農家です。「コミニケーションを大切にしよう、自分達もやればできる!という自信ももてました」と佐伯さんはおっしゃいます。
お昼ごはんは全て村のおばあちゃんたちの手づくりです。「このこんにゃくも豆腐も、しいたけも野菜もぜん~ぶ、味噌も私らが作ったんよ。食べてみて、美味しいよ!自給自足だね。なんも買ってないよ」と元気よく笑顔でおっしゃいます。
地域の絆が深い集落です。
しかし、全国各地過疎化・高齢化が進む中、「私らは生涯現役」と話してくれたおばあちゃんは82歳。
神事を大切にし、美しい黒石川の清流を守り、棚田を守る。田植えの頃の満々と水をたたえた水田は古来日本の原風景として日本人の心に刻まれてきました。
「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)」が盛んに議論されています。工業と農業がお互いに対立ではなく共存し、支えあっていくことは不可能なのでしょうか。
米を食糧、とだけ捕らえていいのでしょうか。
日本の食糧の安全保障はどうなるのでしょうか。
さまざまな事を考えさせられた今回の中須北集落への旅でした。


この美しい棚田の風景がおさめられたポストカードは「棚田清流の会」を通じて販売されているそうです。ご興味のある方は周南市役所「いのち育む里づくり課」(0834-22-8245)までお問い合わせください。
仕事はじめ
今年の仕事はじめは1月7日。
「週刊ポスト・古都 逍遥」で建仁寺の庭での撮影と対談です。
小雪舞う両足院書院庭園は想像していたよりずっと男性的。
詳しくは1月最終のポストをご覧ください。
対談のお相手は随筆家の白洲信哉さん。
早朝からの撮影でしたので対談は場所をホテルに移し行われました。
「不思議ですね、今日は祖母(白洲正子さん)の生誕101年。1月7日は誕生日なのです」・・・と。ほんとうに不思議です。「20年ほど前にご自宅に伺い鴨なべをご馳走になったのですよ」と申し上げました。とても緊張していたことをよく覚えています。
仕事が早く終了したので、「今日はこれから何処にいったらいいでしょうか?」と信哉さんに伺うと「上賀茂神社などいいかもしれませんよ」と教えてくださいました。

ホテルからバスに乗り久しぶりの上賀茂神社へ。
「そうだ!今日は7日、七草粥がいただける日だわ」とこれまた偶然の出会いです。
上賀茂神社(賀茂別雷神社)は下鴨神社(賀茂御祖神社)と共に、賀茂氏の氏神を祀る神社で、葵祭りで賑わいますね。境内を進むと競馬会の馬が迎えてくれます。「手水舎」で清め、桜門をくぐり御祭神に手を合わせ、境内を流れる御手洗川の清い水にそっと手を入れると、何だかすごく幸せな気分になり、七草粥をいただき下鴨神社に向かいました。

私は下鴨神社の「たたずの森」をゆっくり歩くのが好きです。
緑深い木々には精霊が宿っているようです。
砂利道を進むと遊歩道があり、神話の世界に足を踏み入れたよう。
そして東西の二殿の本殿はともに国宝。
冬の暖かな陽射しの中の散策でした。
1月18日、文化放送の私の番組に白洲信哉さんがご出演くださいます。小学館から出版された「白洲家としきたり (小学館101ビジュアル新書)」についてや、旅、日本の美など伺いたいことばかり。
そうそう、御著書の中に大阪・堺市の大鳥神社のことが書かれておりました。「日本武尊」は故郷を見ることなく望郷の歌を詠んで戦死したこと、人気のあった「日本武尊」は人々に悲しまれ、埋葬しても、埋葬しても魂は白鳥になって飛び立ったそうです。大島神社の起源はこの白鳥に由来すると信哉さんのご本に書かれています。
やっぱり行きたい!ということで京都から大阪へ。天王寺からJR阪和腺「鳳駅」下車。そこから歩いて5、6分で着きました。大鳥神社でもお参りができました。
来週は伊勢市に仕事で行くので「お伊勢さん」にもお参りしたい・・・と何だか今年の新年は神様のお導きがあるようです。
箱根駅伝

私のお正月は箱根駅伝で始まります。
今年も新春の箱根路を選手達がゴールめがけて登ってきました。私はコースとなる国道1号をバスで家路につきますから、そのコースがとてつもない山路であることを承知しております。
今年も往路では東洋大学の柏原竜二選手が「3度目」に挑み、見事逆転劇を演じました。東洋大は往路新記録樹立。「やったぞ、田中」と叫んでいた彼のインタビューを聞き思わず涙がこぼれました。

一昨年の3日早朝、スタート地点で復路を走る仲間を見つめていた彼の姿が思い出されます。そして、どれほどのプレッシャーがあったことでしょう。その精神力は彼だけではなく箱根駅伝を走る全ての選手達に言えることです。
復路は東洋無念・・・21秒届かず早稲田大学が箱根駅伝18年ぶりの優勝。渡辺監督、おめでとうございます。努力がむくわれましたね!シード権を得た10校。逃した大学は来年に向けもうスタートしていることでしょう。「箱根駅伝」にはドラマがあります。みなさんのひたむきな姿にどれほど励まされたか。
選手の皆さん、ありがとう

そして、4日早朝、夜明けと同時に私は箱根神社に参拝いたしました。
三が日が過ぎ静謐な神社境内。心静かに「今日まで生きてきた道すじは、本当にこれで良かったのかしら」と、年の始めというのは自分自身の進むべき道をいつになく真面目に考えてしまいます。希望がわき上がる反面、心が揺れたり理由もなく不安になったり・・・。
「そう・・・昨日の選手達のように前を向いて進もう!」
そんなことを考えました。

夜は上野・鈴本演芸場へ。
平成23年正月初席「吉例落語協会初顔見世特別公演」。
5時半から始まる客席は立ち見のでる盛況。
柳家三三さんから、はん治、権太郎師匠。ものまねの江戸家猫八さん。
お正月らしい太神楽、紙切りの正楽さん。
そして、トリは柳家小三治師匠!
最高でした。
小三治師匠は今年の干支・うさぎ年生まれなのだそうです。
今年もおおいに"追っかけ"させていただきます。
皆さま 今年も宜しくお願いいたします。
「JA横浜・FOODで風土フェア」
先週末、晩秋・晴天の下、素敵なフェアに参加してまいりました。
「食と農のとの距離を近づけるために」をテーマに消費者と生産者が一緒になり、収穫体験をいたしました。ご存知ですか?神奈川県の中でも横浜は農地と住宅街が混在した都市なのです。「横浜のどこに農地があるの?」と首をかしげるかも知れません。それが、びっくり!ランドマークなどの商業施設が並ぶ西地区を除いてすべての区に農地があるのです。野菜・果樹に花き・畜産。港町ヨコハマのもうひとつの顔は「農業都市」でもあるのですね。

当日は仲町台の駅に皆さん合流しました。今回の催しに文化放送の「浜美枝のいつかあなたと」も参加してくださいました。番組リスナーの方、一般から応募された方、150名のご参加です。寺島アナウンサーの号令のもと歩いて、いざ畑へ。「コマツナ・ニンジン・ダイコン・ホウレン草・」を収穫。生産者の方に収穫の仕方を教えていただき、子供連れの皆さんも一生懸命収穫。

そして、JAよこはま きた総合センターに集合し、生産者の方から生産する喜びや大変さ、心がけや工夫などお話をうかがい、消費者の方からも熱心に質問がありました。私も「食と農への想い」についてお話させていただきました。
その後「ヨコハマ・ヤサイ・ワークショップ」が行われました。
講師は 柴田香織さん(フード&コミュニケーション代表)
ヨコハマ・ヤサイと食文化
ヨコハマ・ヤサイと日本の伝統
ヨコハマ・ヤサイの強み
手づくりトマトケチャップのテイスチィングや大根・ホウレン草の食べ比べなど新鮮な野菜(採れたて)がこれほど"美味しい"の!との声・声・声。
賢く食べるのは、よりよく生きること。
農は命に直結している。
と私は考えています。
生産者・消費者という枠を超えて「食は命を育む」・・・こと、と実感した一日でした。生産者の平野フキさん、城田朝成さん、そして柴田香織さん。寺島アナウンサー、JAの皆さま、参加してくださった皆さま。有意義で楽しい一日を有難うございました。
抱えきれないほど野菜を手に帰路につく皆さんの笑顔が眩しかったです。
67歳の誕生日
奈良を旅してまいりました。
賑わう奈良の街から離れたところにある奥深い山と渓谷に囲まれた室生の地、女人高野・室生寺。かつて土門拳先生が1ヶ月近く、雪舞う室生寺を撮影するために逗留した橋本旅館の前を歩きながら・・・想いました。
「魅かれるものに魅かれるままジーッと眺める。モノを長く眺めれば眺めるほど、それがそのまま胸にジーンとしみて、僕なりの見解が湧く」
(私の美学・あとがきより)
先生はどんな思いでシャッターをおされたのでしょうか・・・。

奈良から桜井、そして近鉄(大阪線)で室生口大野へ。
バスで15分ほどで室生寺へ到着します。
大自然と調和して、いつ訪れても四季おりおり移ろう佇みの美しさ。
楓の紅葉や銀杏の黄葉が深山の緑に錦を織り、夏に訪ねた涼風とはまた違った室生寺。

石段を上ると金堂(平安初期・国宝)へ。一本造りの御本尊、釈迦如来立像(平安初期・国宝)、薬師如来像、そして地蔵菩薩像。檜皮葺きの屋根、朱塗りの柱や白壁の五重塔(平安時代初期・国宝)が私を迎えてくれます。
私のもっとも好きな客仏の釈迦如来坐像が静かに・静かに佇まれており、じっくり対話ができました。
幸せな67歳の誕生日。
限りある命であることを正面から受け止めなくてはならない辛さもあるでしょう。でも、そうした孤独もつきつめていくと、その奥には、生きていることに感謝する気持ちが隠れているのですね。私は奈良の旅でそれに気づいたとき、それまでよりもいっそう、人が恋しくなったような気がします。
なにごとも、いいことだけではなく、悪いことだけでもないということなのでしょう。自分の生命を丸ごと慈しみ、おもしろがり、楽しんでいきたいと思っております。
映画「クレアモントホテル」
映画「クレアモントホテル」を観てまいりました。
ロンドンの古い街角にある、時代から取り残された小さなホテル。
その小さなホテルでくりひろげられる人間ドラマ。
主人公パルフリー夫人が語ります。
「これまでの人生、私はずっと誰かの娘で、誰かの妻で、誰かの母親だった。だから残りの人生は、私として生きたい」・・・と。
初老の未亡人と青年との出会い。
主人公パルフリー夫人を演じるのは、アカデミー賞ノミネートやトニー賞を受賞したベテラン、ジョーン・プロウライト。(故ローレンス・オリビエ夫人)
原作 エリザベス・テイラー(イギリス人作家)
監督 ダン・アイアランド
青年役にはロンドン生まれのルパート・フレンド
老夫人と青年の心あたたまる交流が描かれています。そこには限りない愛が存在します。孤独と、より良い人生を静かに演ずる主人公の生き方に、私自身の生き方を重ねてみます。
歌手の小椋桂さんがテレビ番組のインタビューに答えておられました。「人生年を重ねれば、坂道を下りてゆきます。ただ、その道を上がり道と捕らえるか、下がり道と捕らえるかで随分違う。もう・・・なのか、まだ・・なのかでも違う」と。
私は、箱根の山を時間が許すかぎり歩いておりますが、ときにはだらだら道を歩いておりますと、足元に咲く可憐なスミレを見つけたり、急な山道を息を切らしながら上がっていると、雲の流れに目を奪われたり、その日、その日の自然を体ごと受け止めている自分に気づきます。
そうなのですね。この映画は、いかに自分らしく行き抜くかを問われているように感じました。そして、最後まで自立して生きる。あきらめない。そこには老いも若さも互いに共有できる愛があるのです。気品ある生き方に感動いたしました。

12月4日(土)より、東京・岩波ホールで公開。
オフィシャルHP http://www.cl-hotel.com/
「小林桂樹さん お別れの会」
「小林桂樹さん お別れの会」に出席してまいりました。
小林桂樹さんは86歳でご逝去されました。
映画、テレビ、舞台と俳優道ひとすじに歩まれてこられました。
18歳で俳優としての人生を歩み始め、翌年徴兵され戦場へ。
会では多くの方が故人を偲び献花しご冥福をお祈りいたしました。
俳優の中井貴一さんは、大学生の時に小林さんと出会われ、40日間撮影でご一緒になり、毎晩夕食を共にし「俳優の道」に進むことを決断されたことなど、祭壇の着物姿であの優しい微笑みの小林さんに語りかけられておられました。八千草薫さんはご主人を亡くされた時に励まされたことなど、しみじみと語られておられました。
私はひょんなことで女優になって「若い素肌」でデビューしました。
右も左も分からず、私の生活は一気に嵐のような春を迎えました。
急に眩しいライトの下に身をおくことになりました。
そんな私を小林さんは昼休みなど、さりげなく声をかけてくださいました。
「大丈夫?困ったことはないですか・・・」と。
それから「社長シリーズ」などでご一緒させていただきました。どんな役をなさっても、そこには庶民の人間としての優しさに溢れた素晴らしい演技があり、多くのことを学ばせていただきました。
安らかにお眠りください。 合掌
日本酒で乾杯 推進会議
「日本酒で乾杯 推進会議」のフォーラムに参加してまいりました。
この会は「100人委員会」がメンバーとなり、日本酒の消費拡大・・といったことが目的の会ではありません。現在、会員は全国2万4千人を超えました。
代表は国立民族学博物館名誉会長の石毛直道氏。
委員には酒を愛し、日本文化を考える各界の方々。
私も末席におります。
「最近のニッポン人には日本がたりない」と危惧し、日本が誇りとすべき伝統的な食文化や伝統芸能、伝承していくべき作法や風習、そのような素晴らしい文化をしっかりと守り育てていきましょう、というような趣旨です。
「日本酒で乾杯!」という言葉の背景には特別の宗教心ではなく、私たちの人知や人間の力を超えたすべてに対して謙虚に祈るのではないか。
石毛代表は
「日本酒を通して日本文化を考えましょう!」
「酒は神さまと人さまの縁を結ぶ」
「人と人の連帯を深める」
そこには「作法と振舞いがある」とおっしゃいます。
フォーラムでは冒頭に神崎宣武氏(民俗学者)のプレゼンテーションがありました。
「酒は私たちが神に捧げる・授かるもの。日本文化の中核に日本酒がある。酒・祭り・祈祷・なおらい(清め)・芸能。無礼講の前には礼講があり、現代社会は無礼講から始まることが多いのではないか・・・」というお話もありました。
そして津軽三味線演奏家の高橋竹山さんの素晴らしい演奏。今年は初代・高橋竹山生誕100年にあたります。私は以前文化放送の番組に初代にご出演いただき感激したことを覚えております。
演奏の後は「伝えたい言霊文化」をテーマに西舘好子さんと竹山さんの対談。初代竹山さんの知られざる一面や、2代目を女性が継ぐことへの想いなど興味深いお話を伺えました。私は新潟 糸魚川に住む竹山さんの大ファンなのです。
飛び入りで小沢昭一さんが壇上にあがられ相変わらず、洒脱なおしゃべりに会場は笑いの渦でした。
その後は日本全国の「日本酒」で懇親パーティー。
あらたまった礼講からにぎやかな無礼講に移るとき、私達は「乾杯!」します。
ほろ酔い気分で小田原からバスに乗り箱根の我が家に戻りました。
この国に生まれ暮らす幸せをしみじみとかみしめた宵でもありました。

ぱしふぃっくびいなすの船旅
船旅
船旅に 擬えるなら 兎に角に 私の船は
甘やかな 港を後に 帆をたてて 錨を上げて
海へ出た 荒ぶる海へ
小椋 桂
そう、私、船旅をしてきました。
と、言っても仕事でですが2泊3日の。
「ぱしふぃっく びいなす・秋の日本一周クルーズ」に横浜港から乗船。このクルーズは、海からめぐる日本の風景。歴史を紡いできたその風景に浸るをテーマに、横浜から、神戸、明石海峡大橋、瀬戸大橋をくぐり、ゆっくりと瀬戸内海を通って佐世保港へ。

私は瀬戸内海、小豆島を航行中あたりで乗船されている皆さまの前で、この四方を海に囲まれた日本の豊かな自然や暮らし・・・などを話させていただきました。
佐世保、萩、能登半島、秋田の男鹿半島、室蘭を回り横浜に戻ってきます。それぞれの寄港地では九十九島や日本海に面した萩では伝統と文化、情緒溢れる城下町など、輪島では朝市や漆塗り、千枚田。男鹿半島では美しい夕日に出逢えるでしょうか。
そういえば私もいつからか「夕焼け探し」の旅にでるようになりました。ある所へ仕事があっていく時、前の日の午後に出かけ、ちょうど夕焼け時にその地にいるようにすののですが、これが実は大変なのです。"運がよけりゃ、いい夕日に会える"・・・と思いつつ列車に乗り込みます。
男鹿半島の夕焼けは今でも忘れられないのです。太陽が沈む直前のあの真っ赤な光りに包まれた太陽。津軽線に乗って見た夕焼けの素晴らしさも忘れられません。
どこかで夕焼けに出逢ったら、その夕焼けのドラマは、今、自分が地球のどこにいるのだろうと、呆然とすることがあります。
たくさんの旅をしながらいつも思うのです。
旅は未来であり、過去であり、そして今であり・・・。
日常の生活時間とは違う時間と空間の中に飛び込むと、私という旅人は、現実の私から旅立ったもう一人の自分と旅しているのに気づきます。
旅する先が、何百年もの歴史が現在も色濃く漂う場所に立つと、私はタイムマシーンに乗ってきたトラベラーという感じになります。
北前船の航路をたどったこともありましたっけ。
海路をたよりに流通された交易。
港、港にドラマがあります。
北前衆の表むきの仕事を支えているのは女たちだったのです。
「でも、過去帳に、女の名前はございませんね」と、ぽつりと語ったおばあちゃん。
このひと言が私の胸にひびきます。
海を見ながら思います。
生物を育てるあらゆる出発点に水があります。
水は生命の命綱であり、その命綱は森です。
その森をこれ以上壊していいのでしょうか。
目の前の経済的な利益を優先して、森を壊していいのでしょうか。
壊れるのを知っていて、そのままにしていいのでしょうか。
森、山、川、海、生物の命、そして私たちの命。
その全てが連鎖しています。
ほんとうに美しい日本の海。
日本一周をするお客さま、クルーの方々。
素晴らしい2泊3日の海の旅をご一緒させていただきました。
皆さま楽しい10日間の旅を!Bon Voyage!
いつの日か ゆったりと列島を巡る船旅をしたい・・・と心から思いました。

奈良・唐招提寺へ
サントリー「セサミンE」のコマーシャル撮影で奈良・吉野に行ってきました。
全国各地の「郷土ごはん」を訪ねて。
番組は10月から1年かけて、全国各地で放映されます。
今回、私はナビゲーターをつとめます。
日本の郷土料理を知るたびに先人の知恵、磨きぬかれた技に感謝の気持ちでいっぱいになります。
奈良は「茶がゆ」(茶がい)を訪ねて。
撮影の始まる前日、少し早めに奈良入りして「唐招提寺」を訪ねました。
ご承知のように奈良は「平城遷都1300年祭」で大変な賑わいです。
私はお寺を巡るときは開門すぐか、閉門間際に行くようにしています。
「唐招提寺」も閉門1時間前。
ほとんど人はおらず、奈良時代建立の金堂(国宝)は10年の歳月をかけ
創建以来最大規模の大修理が行われ、南大門の正面を静かに進むと、
息を呑んでしまいそうなダイナミックな立ち姿、そして簡素ななかに優美な姿。

「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思へ」(会津八一)
本尊乾漆盧舎那仏、薬師如来、千手観音、梵釈二天、四天王。
内陣の仏が静かに佇んでおられます。
これら全てが国宝です。

JR奈良駅からわずか10分ほどの郊外にある唐招提寺。
唐の国から来朝した高僧鑑真大和上によって創建された建物。
御影堂には和上尊像。そして、画家東山魁夷画伯の障壁画「山雲」「濤声」などが奉納されております。
私は以前NHKの番組で和上尊像、そして壁画を拝見したことがあります。和上の波乱にみちた人生を想う時、おのずから襟を正したくなり、また心穏やかに迎えてくれた仏像に感謝しました。
鐘楼、講堂、舎利殿、そして和上御影堂へと進みました。

帰り道、蝉時雨の鳴くなか、蓮池には淡い色の蓮がそっと見送ってくれました。紅葉の季節、雪景の季節、それぞれ素敵でしょうね。
中秋の名月には、ライトアップされた金堂三尊が闇に浮かびあがるとか。
イギリスへの旅 ~ Part2
今回の旅は先週も載せましたように、10月からオープンする「やまぼうし」のアンティークショップの買い付け。と言っても小さなショップ。こちらは娘の担当です。友人の天沼寿子さんのご案内で、ライやペトワーズの美しい田舎街へ私はバカンス気分です。

どこも印象的でしたが、中でも素晴らしかったのはピーターシャムナーサリーでのランチ。ガラスの温室の中で昼食。足の下はもちろん土。ダリアが満開で、あまりの素敵さに天沼さんとシャンパンで乾杯!
電車でロンドンに戻ってきました。

はじめは中心から少し離れたハムステッドのB&Bに宿泊しました。
小さいけれどスタッフも優しく家庭的な宿でした。

最後の日だけは、ロンドンの中心、コペントガーデン近くにあるとてもお洒落なホテルへ。「お互いこれまで頑張ってきたのですもの・・・1泊ぐらいちょっと贅沢しましょう!」と。
インテリアがとても素敵なホテル。
ここでのイングリッシュ・ブレックファーストは素晴らしかったです。
食事中、室内がざわざわ・・・ある有名な俳優さんが入っていらして隅のほうで食事をしていらっしゃいました。
ロンドン・・・といえば、たくさんの思い出がつまった街です。
もう、43年も前のことになります。
映画「007は2度死ぬ」の撮影で約7ヶ月滞在した街。
この007の経験は降って湧いたような、おとぎ話のような経験でした。
私の22歳から23歳にかけての仕事でした。
ショーンさんは当時、30代半ばくらいだったでしょうか。
まだ若かった私にとって"おじさま"という印象でした。
苦労なさった方でしたから、スタッフにも私達にも絶えず気をつかってくださいました。
ただ、辛かったことは007に出演する女優はロンドンでも最も由緒ある「ドーチェスターホテル」に泊まることになっていました。女王陛下もお泊りになるようなホテルでしたから、ジーンズで入るなんてとんでもない。きちんとハイヒールを履いていなければなりません。当時のイギリスでは、格式というものがとても厳密だったのです。
その上、私には英国の映画に出演するにあたって、いかめしい英語の教師がつきました。毎日、毎日レッスンが終わると泣きべそをかいていましたっけ。とうとうストを起こし、ホテルを台所付きのフラットに変えてもらうこと。英語の先生を若い女性に変えてほしいと訴えました。
それでハイドパークの近くに移りました。
ようやく自炊生活をすることが出来ました。
でも、「ドーチェスターホテル」での忘れられない思い出。そう、悲しくなってロビーに下りて行きボーとしていた時のことです。回転ドアが回り美しい女性が入っていらっしゃいました。辺りをオーラが輝き笑みをたたえた女性(ひと)・・・は、オードリーヘップパーンさんだったのです。
「なんて美しいの、なんてエレガントなの・・・」
悲しさなんて飛んでいってしまいました。
と、ロンドンにはたくさんの青春時代の思い出がつまっています。
ホテルの内装はすっかり変わりましたが、ロンドンに行く度にホテルの前に佇む私がいます。


今回感じたことは、ロンドン市内にオーガニックを扱うショップやカフェやレストランが増えたこと。そこには単なる流行ではなくきちんとしたポリシーがあること。そこが素敵です。しかも、しっかりした味、お洒落なディスプレイ、健康な土、太陽、水。世界的に地産地消の時代になってきたのでしょうね。

最後はスコーンと紅茶のクリームティーでお茶をし、機上の人となりました。
イギリスへの旅 ~ Part1
イギリスへ行ってきました。
今回は友人の天沼寿子さんと娘の3人旅でした。
「箱根やまぼうし」が秋からオープンする小さな「アンティークショップ」に置く商品を見つけに。私はもっぱら観光。娘は「デポー39」を長年経営していらした
天沼さんに教えていただきながらの商品選び。

ロンドンから100キロあまり、約2時間で行ける田舎町。
RyeとPetworthに行きました。
英国の魅力はなんといっても大自然に囲まれた田舎が美しいですね。
Ryeは中世の街に迷い込んだような佇まい。
レンガや木組みの家々がならび、窓には美しい花が咲き、本当に素敵。
もう、町全体がアンティーク。
高価な骨董品ではなく、どこの家でも使われていたような品々。
娘は一点一点、丹念に探していきます。
ライ・・・。愛らしい名前にふさわしい町でした。
Petworthは2,30分も歩けば町を一巡りできる小さな小さな美しい街。
ヴィクトリア時代のカップ&ソーサーやリネン、アクセサリー、
彼女は古い本も買っていましたっけ。


「もっぱら観光」・・・なんて言っていた私。
やはりアンティークを目の前にすると心がトキメキます。
丁寧にひとつひとつの物を大切に後世に残すイギリス人のアンティーク
に対する想いを感じた旅でもありました。
イギリスは私にとって思い出深い街でもあります。
来週はロンドンをご案内いたしますね。
近畿大学の学生と若狭でのフィールドワーク
4月から始まった近畿大学での授業も無事終了し、福井県若狭の我が家でのフィールドワークをしてきました。2泊3日、好天に恵まれ学生達は大阪から直通バスで我が町まで。町の中の移動は全て自転車です。
我が家は福井県大飯町三森にあります。
ここは近くの村から農家を移築した家です。
授業では「「自分らしさの発見―暮らし・食・農・旅がもたらすもの」をテーマにしました。
私自身これまで素晴らしい先人から、たくさんのことを学んできました。
こうした魂に響くような出会いが、今の私を作ってくれました。
授業では
「現場を歩く大切さ」
「食は命」
「食料の自給できない国は独立国ではない」 故ド・ゴール大統領
「寝屋子制度」
など優れたビデオ作品を見ながらの勉強でした。
自然に囲まれた我が家の囲炉裏端では、米農家を営む私の農業の先生、松井栄治さんから農業の現状をじっくり伺えましたし、松井農園、酪農家を見学したり、夜は農家の若者にも参加してもらいバーベキューをしながら、若者同士、和やかななかにも現場で働いている彼らの話は学生達にとって意義ある話でした。
何よりも満天の星空・天の川も見え、流れ星に感激し、虫の鳴き声を聞きながらの夜。松井さんご一家や集落の方々の優しさに学生達は"何か"を感じてくれたことでしょう。


朝の山歩き
心と頭の調整が音楽だとすれば、身体の調整を担っているのは、私の場合、毎朝の山歩きです。骨祖しょう予防を兼ねて、始めた箱根の山歩き。木々の枝の間から朝の光りがスーッと差し込んで、とても気持ちいいのです。
ひと晩眠って、前日の疲れがすっきり解消されるのが理想ですが、年を重ねるにつれ、身体がすっきり目覚める朝ばかりではありません。身体を動かすことによって身体が活性化して、不調の部分が解消されます。

そして、毎朝歩くことで、箱根の山のエネルギーをもらっているような気がします。
背中を痛めて、身体の筋肉を鍛える大切さを知り、必要に迫られて始めた山歩きでしたが、筋肉作りだけではなく、心身の調整にまで役立ってくれているようです。
「この場所が好き!」と思える散歩コースがあると、それだけで元気になれますよ。この楽しみにはお金はかかりません。歩きやすいスニカーが一足あればそれで十分ですものね。

亜麻の花咲く町
北海道・当別町に行ってまいりました。
「浜さ~ん、亜麻の花が咲きましたよ!」とのお誘いを頂きました。
"亜麻色の髪の乙女"という歌がありましたよね。どんな色なのかしらと、ず~と思っておりました。亜麻色の髪というのは花の色ではなく、花が散ったあとの種子と茎が栗色、あるいは金色で、花は薄紫にブルーがかかったような色です。この美しい一輪の花の命は はかなく早朝から半日で散ってしまいます。
亜麻の種が日本に入ってきた年代ははっきりしないのですが、2つの説があると言われています。一つは元禄時代に薬物植物として江戸王子の薬草園で栽培されていた。もう一つはキリスト教伝来時(1549年)、西洋医術と同時にオランダ船により輸入されていた。どちらの説とも古い歴史があります。
古代ギリシャの医学の父、ヒポクラテスは「亜麻種子」を食べると胃腸の不快を解消するとして栽培を推奨したようですし、古代エジプトでは亜麻の布は「月光で織られた布」と呼ばれ広く神事にも使われていたそうです。かつてエジプトではミイラを包む布として、また女性の下着やシーツなどリネンとして肌触りがソフトだったので使われていたとか。
じつはこの町は、私も審査委員をしております"美の里づくりコンクール"で審査会特別賞を受賞されているのです。途絶えてしまった亜麻をもう一度復元させようと、農家の若手が立ち上がり、民間企業と農家が連携して亜麻の生産が始まりました。それを行政がサポートする。無農薬での栽培ですから、雑草や害虫との闘い。熱心なリーダーのもとで様々な活動が評価されたのです。
亜麻を全国に発信し、収益も上げ始めたそうです。札幌の大学生も時には除草の手伝いにみえるとか。
地域づくりはこうした連携プレーが大事なのですね。今後、亜麻の花を見に来る方、亜麻のオイルやリネンが全国に知られるように・・・と願っております。
私が伺ったときも初夏、花の開花期に合せて「亜麻まつり・イン 当別」が開催され、都市と農村の交流が行われていました。
よみがえれ!亜麻の花

近畿大学・答志島へのフィールドワーク
三重県鳥羽市にある離島、答志島に行ってきました。
4月から近畿大学の客員教授として講義を受け持っています。
テーマは「自分らしさの発見―暮らし・食・農・旅がもたらすもの」
一回目は「現場を歩く大切さ」についてでした。
机を前にして考えることも大切ですが、机の上の資料には限界があり、現場を足で歩かない限り見えてこないことがあることを、40年以上農山漁村を歩き回ったフィールドワークから私は実感しました。
現場を歩くなかで、人は一人で生きているのではない、多くの人に支えられて生きているのだということを、学生に感じとってほしい・・との願いがあります。他者を理解することは、自分を理解すること。大地を歩き、人に出逢い、話を聞き、語り合い、その中から見えてくる切実な現実から導きだされた問題解決法にこそ、真の力が宿るということを知ってほしいのです。
そこで、以前授業で観た民族文化映像研究所の「寝屋子」について「現場に行きたい!」との要望が学生からあり行ってきました。この島の歴史は古く、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂が
「釧着く答志の先に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」
と万葉集で詠んだ地です。
そこに「若者宿」とよばれる「寝屋子制度」があります。かつては、中学を卒業した男子が仲間を作り、頼んでどこかの家をヤド(宿)にそこに寝泊りするのです。日本には古くからあるシステムでしたが、大正期を境に減少。現存するのは、答志地区のみになってしまいました。
血のつながった親子ではないけれど、生涯、親子のように付き合う。
寝屋子同士も死ぬまで兄弟同然。
その背景には漁業という命をかけた仕事には、地域の人びとの関係性、共同性、結びつきが大切だということがあります。今も島ではこの制度は住民の精神的な居場所であると共に、地域の教育力の基盤になっています。もちろん時代の流れの中で少しの変化を経ても、「住民が助け合う」文化は受け継がれています。
インターンシップのレポートでは
「寝屋子の制度は日本の宝といえる文化だと思う」
「日本で薄れてしまっている人と人との関わりの大切さを実感した」
「子供たちに限らず大人たちにも人のつながり、仲間はすごく大切な存在なんだと改めて感じた」
「現在、農村や漁村では少子高齢化によって、後継者となる子供が減少しており、より一層過疎化が進むなかで寝屋子制度にヒントがあるかもしれない」
など、皆さん感想を寄せてくれました。
さて、ビデオを観て感じたことを実際に「現場を歩き」どのような思いがしたでしょう。次回の授業で聞かせてもらいます。
梅雨の中、当日は眩しいほどの太陽が海を渡ってくる風も心地よく、船着き場でかつて寝屋親であり大勢の子供たちの親だった山下正弥さんが、船が見えなくなるまで手をふって見送ってくださった姿に、暖かな人のぬくもりを感じた答志島の旅でした。

木の実ナナさんの主演ミュージカル「イカれた主婦」

先日の18日の夜、木の実ナナさんの主演ミュージカル
「イカれた主婦~ANGRY HOUSEWIVES」を観てまいりました。
ひと言・・・「カッコ良かった!」
他の人たちとの"ぶつかりあい"の爆笑ミュージカル。
ロックン・ロール!!って!?
60年代聴いたローリング・ストーンズ?
初演は20年前とか。
その時には残念ながら拝見しておりません。
先日ラジオのゲスト(文化放送・浜美枝のいつかあなたと)にお越し頂きお話を伺いましたが、もうスタジオでもロックン・ローラーだったナナさん。いつも変わらぬ全力投球!のナナさん。
ナナさんのもつ魅力が十二分に発揮されており、明るいパワーだけでなく、女(母親)の悲しみや優しさ、切なさ、それでいて周りの人をあたたかく包み込むベヴの人間的魅力が舞台いっぱいに広がり、共演の木村緑子さん、彩輝なおさん、浦嶋りんこさん、山崎育三郎さん、川崎麻世さん、ROLLYさんたちとのハーモニィーも最高でした。
客席のお客さまもノッテいましたね。
「イカれた主婦」に客席は「イカれていました」。
オフ・ブロードウエイでの上演が日本に上陸し、素晴らしい舞台となっていました。東京(ル・テアトル銀座、5月23日まで)が終わると名古屋、金沢、大阪公演まで、全国に爆笑とロックン・ロールが響きわたることでしょう。
ナナさんそして皆さん!元気を、愛をありがとうございました。
PS 料理家の枝元なほみさんは来週にいたしますね。
奥入瀬渓流
先週は「サントリー・セサミンE」のコマーシャル撮影で青森県南部地方のロケに行ってきました。
築130年以上経った家で、今でもそこに暮らしておられる家をお借りしての撮影でした。黒光りする柱・梁、そして八甲田山を遠く見ながらの美しい風景。
そこでの人びとの暮らし、伝統料理。昨年は美しい棚田の風景の中でのロケ。どんなコマーシャルになるのか・・・楽しみにしていてくださいね。

小雨が降る一日、休日となったので以前から憧れていた「奥入瀬渓流」の川沿いを十和田湖まで歩いてきました。渓流沿いにはいくつもの滝があります。雲井の滝、銚子大滝、そして阿修羅の流れの美しさ・・・雨も上がり渓流沿いには車道とともに遊歩道が整備されているので楽に歩けます。奥入瀬渓流は青森県十和田市十和田湖畔子ノ口(ねのくち)から焼山までの約14kmの渓流です。十和田国立公園に属し国指定の特別名勝及び天然記念物。

そして十和田湖では「湖上遊覧」も楽しみました。陸からではなく湖上から見る美しい風景。西湖、東湖をゆっくり50分かけての素晴らしい旅。十和田湖は、典型的な二重カルデラ湖。周囲は約46km、最も深い所で326m。水が澄んでいました。豪快にして繊細、初春の彩りは格別でした。きっと四季折々素晴らしいことでしょう。
そして箱根に戻り、芦ノ湖の周りを今朝も2時間ほど歩きました。
"水"のある風景は心を癒してくれます。
近畿大学
近畿大学総合社会学部の客員教授を任命され、春からの授業が始まりました。総合社会学部は近畿大学第12番目の学部として誕生しました。
「道なき道を拓く」が目ざすべき旗印です。
春の光りの中、キャンパスに足を踏み入れると、ハナミズキの花が満開に咲き私を迎えてくれました。真新しい校舎、大学のスタッフの方々が笑顔で迎えてくださいました。
私は中学しか出ていません。高校や大学という学び舎で勉強をする機会には恵まれませんでしたが、社会に出てから出会った多くの先輩方、そして本や映像を通じて巡りあうことができた素晴らしい先人から、たくさんのことを学ばせていただきました。
「この人を師と仰いで人生を歩んでいきたいと一瞬にして心に決めた人」もいます。そして、多くの出会いに導かれるよう、に20歳を過ぎると仕事の合間に日本のみならず、海外にも出かけ、民芸・骨董・絵画・建築などを現場で独学で学びはじめました。
机の上の学問だけではなく、現場に赴き、この目で見、耳で聞き、肌で感じることを何よりも大切にし、多くのことを学んできた私。
「現代の先達に学ぶ・自分らしさの発見~暮らし・食・農、旅がもたらすもの」
第1回目は「現場を歩くことの大切さ」
土曜日の午後、学生達は私を迎えてくれました。
そして彼らのスピーチは問題意識をしっかり持ったものでした。
「情報量を考えると、明らかにインターネットが速くて多量だが、新聞やマスメディアだけの情報では一方的な考えに固まってしまう。やはり現場へ赴いて、多くの人びとの話にふれ、耳を傾けることが大事」
「農業体験をした経験で、スーパーに買い物に行かなければ、食料を手にできない現実を考えてしまう」
など等。
子育ては自分育てでもある・・・と思ってきましたが、こうして若者と一緒に語りあっている時間は「自分育て」だとも思えました。
学生の皆さん「美しいキャンパスを港」として、どんどんフィールドワークに出かけましょうよ。大地を歩き、人に出会い、話を聞き、語り合い、その中から見えてくる切実な現実から導き出された問題解決法にこそ、真の力が宿る・・・と思っています。
次回又会えるのを楽しみにしています。
PS. 学食のソースカツどん美味しそうでしたね!次回食べます。
小三治師匠の独演会
桜満開の4月4日(日)、アミューたちかわに落語を聴きに行ってまいりました。
「柳家小三治・独演会」
演目は「長屋の花見」「品川心中」
立川駅から歩いて15分ほどのホールまで、「もう恋なのかもしれない」というときめきを感じながら・・・市民会館のまわりの桜が満開に咲き、序奏がはじまります。
1,500名のホールは満席。まだまだ落語の聴き手としては10年ほどですので感想はひかえますが、この季節、この時代に「長屋の花見」を聴けるなんて。
人生のすべてがあるともいわれる落語の笑いの中には、人間に対する優しさのようなものがあります。だからこそ、大人が心から笑えるのではないでしょうか。若者も会場には多く見られました。そんな若者にも師匠は話かけます。
そして、ホールの隅々の方にも心をくばられて・・・。
数いる噺家の中でも、最初に出会った噺家が小三治師匠であったことも、私にとっては本当に幸運でした。今は60代半ば。最高の噺家・小三治師匠に巡り会えたご縁を大切にしたいと思います。目で、耳で、一心に師匠の世界を堪能させていただいた桜満開の昼下がりでした。これからも追いかけ続けます。

「クロマグロに思う」
ワシントン条約会議でモナコ提案は否決されました。
地中海を含む大西洋産クロマグロです。
これは予想を上回る大差でしたね。
皆さんは今回の問題をどのように考えられますか?
たしかに資源が絶滅するとは思えませんが、「枯渇」することは十分考えられます。漁業で生計を立てる人々のことを考えると、安堵いたしましたが、日本がクロマグロの80%を消費しているのはたしかですし、「なくなる前に食べておかないと・・・」と言い寿司屋に飛び込んだ友人もおります。
そこで思うのです。
「トロ大好きな日本人」ですが、現実には魚離れが進んでいる食卓。
日本にはいろいろな魚があります。もっと色々な魚を食べませんか?
今回のことをきっかけに、「食のあり方、暮らし方」を考えてみませんか?
そして、国内に目を向けると三陸のマグロ漁業が危機に陥っています。
河北新報社では連載企画で「漁場が消えるー三陸・マグロ危機」を発表しました。海外の人たちに頼らざるを得ない、後継者不足の漁業。
今回の「クロマグロ」から日本の未来、世界の環境を考えるのは
他人事ではないと思うのですが・・・。
夢を入れる筥(はこ)

春が近づくと心がウキウキしてきます。
「さあ~何を入れましょう・・・」
それは、「箱」と書かずに「筥」と書きます。薄紅色に染めたガラスの表面に、金箔を桜の花びらを散りばめたように貼り込んだ六角形の飾り筥。私が大切にしているものたちのなかでも、特に気に入っている宝ものの一つです。
そういえば、遠い昔の少女の頃にも、そんな風に大切にしていた宝ものの箱がありましたっけ。
季節の花々を形どった色とりどりの練り菓子は、どれもきれいで美味しかったけれど、私にはそれ以上にお菓子の入っていた箱の方が、もっと魅力的だったのでした。幼い日、私の家を訪ねてきたあの美しい和服姿のお客さまは、いったい誰だったのでしょう。
きれいな和紙でできた、淡い桜色の箱。
おはじきや、千代紙や、ビーズの首飾りや・・・自分がほんとうに好きな物、
美しいと思える物だけを詰め込んで、大事に、大事に持っていたのです。
嫌なことがあって気が沈だときなど、その箱を開ければ幸せになれたの。
そして大人になって、ある時ガラス造形家の藤田喬平先生の桜色をした飾り筥が私を待っていてくれたのです。私は、その筥の美しさにみほれているうちに、子供の頃の和紙の宝箱のことを思いだしました。
もうすっかり大人になった私にも、ただ眺めているだけで嫌なことが忘れられるような、心に潤いを取り戻させてくれるような、そんな宝の筥が必要に思えたのです。
出会った瞬間に私は藤田喬平先生に
「これは何をいれるための筥ですか?」
とたずねました。
「あなたの夢を入れてください」・・・と。
先生はきっと、箱は物をいれるもの、そして、筥は、美意識とか思いを閉じ込めておくもの、と区別していらしたのかも知れません。
三月三日が近づくと、だからウキウキするのです。一年に一回だけ"夢"を入れる筥に料理を盛り、お雛さまをします。
今年は何を入れましょう。
すっかり大人の私は女友達とシャンパン・・・。筥には"いちご"、いえいえ、
やはり食いしん坊の私は料理を入れ夢を語りあいましょう。
わが人生に乾杯

1月末にNHKラジオ「わが人生に乾杯」の生放送に出演いたしました。
司会は山本晋也監督、パートナーは出光ケイさん。(20:05~21:25)
なにしろ生放送です。箱根の山から渋谷のスタジオへ。1時間前に入り、打ち合わせを兼ねてのおしゃべり。さすが、山本監督、映画時代の話からこれまで歩んできた私の人生、緊張を和らげてくださりながら、番組は進行していきました。
子供時代の私。小さい頃から、家事を手伝い、親に甘えることの下手だった事、貧しくとも心豊かに過ごせた時代。少女時代の私は、男の子みたいにおてんばで、気が強く、でも泣き虫でした。かまどの炎を見ながら、ふっと寂しくなり涙がポトポト。そんなとき、昔の人たちや昔のことを知りたいな・・・と思ったこと。
そして、中学生で出会った「柳宗悦の民芸」の世界。
バスの車掌から女優へ。女優をしながらも「このままやっていけるのかしら?」と才能のなさに途方にくれた日々。そんな時に出会った写真家・土門拳先生の「本物に出会いなさい」というひと言。
10代でのヨーロッパひとり旅。
「007は2度死ぬ」出演のエピソードやそこで出逢った俳優さんたち。
ショーン・コネリィーさん。スタジオでお会いしたシドニィー・ポアチエさん。
偶然ホテルでお見かけしたオードリィー・ヘップパーンさんの美しさ、など等。
私の青春の一ページです。
そして、40代からの「日本の食・農・環境問題を考える中で、日本古来の手仕事や暮らし」への思い。食の安全や安心に関心をもつ人も増えてきた時代、生産者、消費者の垣根を越えて「食・農」を考える時代になり多くの若者が取り組み始めたこと。
私は自分の足で現場を歩き、自分の目で見、自分の肌で感じ、農に生きる人たちと語りあってきたこと、などを話させていただきました。
「自然は寂しい、しかし人の手が加わると暖かになる その暖かなものを求めて歩いてみよう」
宮本常一のこの言葉に背中を押されての旅。そして、この番組ではゲストが、自分の人生を振り返り、その気持ちを文章に綴り読むことになっているのです。
「私にとって人生とは、自分というものを探す旅のようなものかもしれません」
多くの人に導かれ、先人にも教えをいただき、あるいは骨董や民芸に手を携えてもらいながら、これまで歩んできました。たくさん笑い、たくさん勇気をもらい、たくさん楽しい時間を過ごし、たくさん学び・・・辛さも悲しみもエネルギーに換えてきました。
ひとつ山を乗り越えるたびに、新しい自分を発見したような気がしました。経験を積み、年齢を重ね、知恵も少しずつ身につけました。大きな山を目の前にしても、以前のようにたじろがなくなったのはそのせいかもしれません。がむしゃらに乗り越えるだけではなく、回り道をしたり、時に休んだり、ときに人の助けを借りたりすることも覚えたからです。
そして、旅の道程がもっと深く楽しいものにと変わって行きました。私はこれからも明るい光が差し込む方向に歩いていきます。道端に咲いている野の花の可憐さや頬に受ける風に微笑みながら、一歩一歩、明日、どんな自分に出会えるのかを楽しみに、丁寧に生きていきたいと思います。
こんなことを話させていただきました。
そして、山本監督から
「浜さん・・・貴女のわが人生とは」の問いかけに
「限りある命だということを、実感としてわかる年齢になったからこそ、自分が本当にしたいことを探し、納得できる人生を過ごしていきたいと思います」
と申し上げました。
山に戻ると星が輝いていました。そして「わが人生に乾杯」とグラスをかたむけ、今回も幸せな仕事との巡り会わせに感謝した夜です。
沖縄で私を待っていてくれる女性たち
私にとって大切な沖縄の女友達。
出逢ってから20年は経つでしょうか。
今回は那覇ではなく宮古島で会いました。
私にとってかけがいのない女友達、皆んな40代です。
ある時は旧三月三日。女たちの浜下(はまおり)の日。
伝統行事だから、昔のような姿で。重箱に浜下りの料理をもって。
沖縄に来て癒されるのは、豊かな自然や芸術に加えて、
彼女たちとの交流が私に大いなる元気のもとを与えてくれます。
私が初めて沖縄を訪ねたのはパスポートが必要な時代でした。
民芸に出会い、偉大な先人たちが訪ね歩いた民芸の故郷を訪ねる旅が始まりました。道具と出会い、そこに暮らす人のお話を聴き、帰ってくるだけなのですが、心がいっぱいに満ちたりるのです。
今回の宮古島での一時は、さらなるエネルギィーを、愛情をいっぱい・いっぱい頂きました。宮古の島の優しさに満ちた人々。美味しい地産池消の食材を生かした料理。
ミヤコ(ミヤーク)とは「人(自分自身)の住んでいる所(地域・集落)」という意味だそうです。
「ミ(自分)ヤ(住んでいる)コ(場所・村)
宮古島には、日本本土や沖縄本島とも異なる独自の文化があります。
伝説もたくさん残っています。
まだまだ寒い箱根から、宮古の暖かさを贈ります。


メリークリスマス

皆さまはクリスマスをどのようにお過ごしでしょうか。
私は、箱根の森の静寂な中で迎えております。
我が家に住むたくさんの柱や梁、床や戸棚、多くの木とおしゃべりします。
木々たちは、何百年も生きているからものしりで、私のわからなさを諭したり
ときには眠ったふりをして答えてくれなかったりするけれど、
木々とのおしゃべりは本当に楽しいのです。
素敵なクリスマスを!
箱根のクリスマス
12月2日~3日にかけて主婦の友社「ゆうゆう」のオリジナルツアーで、ここ箱根の我が家に、遠く北海道から九州まで、70名の読者の方々がお集まりくださいました。
雑誌「ゆうゆう」では4年間の連載を受け持ちました。連載開始当時60歳になったばかりの私の経験を少しでも参考にしていただけたら同じ女性として嬉しいと思ったからです。
「ゆうゆう」では、一人の人間として、ありのままの自分を語ってきました。私も読者の皆さんと同じように、人生の中で、楽しいことや嬉しいことばかりではなく、 苦しかったことや悲しかったことなど・・・を共有してきました。だからでしょうか、初めてお会いした方ともすぐに仲良しになれます。
親子でのご参加、50代、60代、70代の方々。皆さんのお顔が輝いています。
女性の人生は、家族を精神的に支えることが求められるだけに、男性より悩みが複雑かも知れません。けれども、その大変さを乗り越えることで、より豊な自分になれるのではないでしょうか。今回の皆さんのお顔を拝見していると、そんな美しい輝きがありました。
家のことはしばし忘れ「ご自分へのご褒美よっ!」とお話すると大きくうなずく彼女達。 素敵な箱根の初冬の午後の一日でした。


亜麻の花咲く里づくり
10月下旬、北海道当別町に行ってきました。
この町は札幌都心部から約15~25kmに位置しています。当別町では、明治初期より始まった亜麻の栽培が、化学繊維の普及により除々に減少し、やがて姿を消してしまいました。その美しい景観をもう一度取り戻し、地域の活性化につなげようと復活に取り組んでいます。
(亜麻とは、中央アジア原産でアマ科の一年草のこと)
約40年も栽培が途絶えていたこともあり、亜麻の栽培方法の研究から始まり、海外の文献などを参考に試行錯誤を重ね、8年目の現在は約8haの作付けをするまでになりました。生産者の輪も広がり、商品開発も進み、フォトコンテストや亜麻まつりなどで町は賑わいます。亜麻の種子から抽出される「亜麻仁油」は身体によいといわれています。

初夏には薄紫の亜麻の花が咲き乱れ、収穫時期を迎える秋には、一面黄金色に色づき美しい風景を作り出すそうです。
廃校となった小学校を亜麻の資料や木工家具のアトリエなどに使われており、何だか懐かしい光景がよみがえりました。


「亜麻の花咲く町」・・・今度はぜひ夏に行ってみたいです。
「日めくり万葉集」
NHKで「日めくり万葉集」が放送されています。
NHK教育テレビ
月~金曜日 午前5:00~5:05
日曜日 午前6:00~6:25(再放送)
BSハイビジョン
月~金曜日 午前6:55~7:00
私は春にも出演いたしましたが、10月22日(木)に撰者として箱根のいにしえの世界をご紹介いたします。
足柄の
箱根の山に
粟蒔きて
実とはなれるを
あはなくも怪し
巻十四・三三六四 東歌・相模国歌
粟を蒔いて無事に実ったというのに逢わないなんておかしいわと、そんな思いで詠んだ女性の住まいが、我が家と同じ箱根の山というところに惹かれました。
番組では実際に竈で万葉時代の農民が主食とした粟を炊いてみました。粟が八で玄米が二の割合です。これが想像よりフワーとしていて美味しいのです。
粟は5月に種を蒔き10月から11月に収穫します。ということは、逢いたい人が半年近く逢いに来てくれない想いを詠んでいるのですね。この女性の突き抜けた大人の魅力、心のゆとりを感じます。そして、もう男が逢いに来なくても気にしないわっていう逞しい女性を想像してしまいます。
恋の歌にして詠む・・・素敵ですね。
どうぞ番組をぜひご覧ください。

広島への旅
台風の前日、紅葉にはまだひと足早いのですが、広島の厳島神社に行ってまいりました。
海に浮かぶ姿が幻想的で、1400年の歴史を持つこの神様に思わず手を合わせました。背後に山をひかえ、前面が海の社殿は神々しく感じ、自然を崇拝して、山などをご神体として祀られている姿はまさに日本の宝、いえ世界の宝・・・だと実感いたしました。

厳島神社は平成8年12月にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
厳島神社の主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫の三女神です。
自然に神をみる日本古来の信仰をそのまま形にした美しい神社です。宮島は昔から神の島として崇められていたので御社殿を海水のさしひきする所に建てたといわれています。まもなく山々が紅葉し、さぞ美しいことでしょう。

船乗り場までの裏道を散策していたら美味しい「もみじ饅頭屋」を見つけました。小豆の皮をむき、餡子にしているのです。甘さも程よく、店先では饅頭とお茶、またはコーヒーがいただけるのです。外国人2組が美味しそうにお饅頭を食べていたので私も仲間入り。
ふと、今は亡き宮島の「しゃもじ作り」の名人、三宅さんを思いだしました。
あれは23、4年前のことです。テレビの取材でお訪ねしました。そのとき三宅さんは私に向ってこう仰いました。
「浜さん、僕の作るしゃもじは、お母さんのおっぱいと同じですよ、原木から乾燥させ、おしゃもじのカタチを作ります。でも本当のおしゃもじにするのは、お母さんなのです。」
私も4人の乳児は母乳で育てましたが、意味が分かりません。
「何故ですか?」と伺うと
「よそみをしながらお乳をあげていませんか?心こめていますか?私のしゃもじも心を込めて、ご飯をついでほしいのです。」・・・と。
旅って出逢い・・・と、しみじみ思ったものです。
近畿大学でのオープンキャンパス
私は来年、2010年から東大阪にある近畿大学に新たに開設される「総合社会学部」で、客員教授を拝命することになりました。
そこで、私は「自分らしさの発見~暮らし・旅・食がもたらすもの」というテーマのもと、授業を担当いたします。
先日オープンキャンパスにお集まりのご父兄、高校生の前で話す機会を得ました。私が講義を担当することになる学生さんたちとのやり取りを通して、私もまたもう一度学び直したいと、今からわくわく胸をときめかせております。
私自身、男の子二人、女の子二人、計四人の子供を育てました。
四人子供がいると、まさに四人四様で、反抗期が激しい子もいれば、黙っていうことをきかない子もいるし、勉強をコツコツやる子もいれば、自分の好きなことしかやりたがらない子だっています。
同じように育てていると思っているのに、それぞれの個性が育っていて、人は実に多彩な大人への道をたどるものなのだと感じさせられることもたびたびでした。
子育てを通して自分の長所にも短所にも気づかされました。
子育ては一筋縄ではいきません。
大学生になる子供に対して何ができるのでしょうか・・・。
私は思うのです。
「親は子供の成長を認める必要があるのではないか」と。
大学に入って卒業するまでの4年間は、子供たちにとっては激動の時代です。息子、娘から小さな大人になるためのステップを歩むときです。
大学時代は、モラトリアムの時期ともいわれます。心理学者エリクソンによって導入された概念「大人になるために必要な猶予期間」。大学時代は、まさにそのモラトリアムを体験することで、自分の輪郭を把握し、これから飛び込む、きびしく、喜びに満ちた社会を生き抜く覚悟と基本的なスキルの芽を育てるときだと感じています。
もし考えにつまった時には、現場に赴きましょう。
現場を歩いて学ぶことも大事だと思います。
自分の足で歩き、目で見、肌で感じ、たくさんの人々と出会うことでの発見。
大切なのはコミュニケーション。
失敗しても試行錯誤を繰り返しても、またいつからでも人は立ち上がることができます。どんなことがあっても、いつも心に希望を抱き、前に進んでいける、しなやかな心と知性を、大学で身につけていただきたいと願っています。
と、こんなことを1時間お話しし、その後に高校生と語り合いました。
来年の4月、キャンパスでお目にかかれることを楽しみにしております。
リッチモンドへの旅
1週間の休暇を終え帰国いたしました。
今年の夏は「ギャルリー田澤展」と「片岡鶴太郎展」の二つの展覧会が開催され、おかげさまで多くの皆さまに、ここ箱根までお越し頂き感謝いたします。
HPにもありますように、箱根の我が家を大人の方に楽しんで頂きたい・・・
そんな思いで春から本格的に始めた"展覧会"、"コンサート"、"旅"など。
思いのほか若い方々にもお越し頂き、喫茶でのおしゃべりも楽しみになりました。
「正直な作り手たちの味」も立ち上げました。
30年近く全国の農山漁村を訪ね歩き、作り手と語り合い、自分の舌で味わった美味しいもの取り寄せ便です。
四季折々、この国の豊な食材に出合ったときの喜び。
お腹だけでなく心まで満たされる・・・
そして、めぐり合った時の作り手から感じる誇りとこだわり、誠実なお人柄、生きる姿勢、世界観や哲学まで垣間みることができることに深い感動を覚えます。
「間菜舎のコーヒー」に続き、今回は「安曇野の純正アカシア蜂蜜」をご紹介いたします。次回は「新米・浜美枝のひとめぼれ」です。ご期待ください。
詳しくはこちらをご覧下さい。

さて、今回の旅は友人の天沼寿子さんと、リッチモンドの彼女の友人宅に宿泊させて頂きました。リッチモンドは1779年にヴァージニア州の州都に制定された、歴史ある街です。日本からはシカゴ経由で行きましたが、飛行場の大きさにドギマギ。モノレールに乗っての第5ターミナルから第1ターミナルへの移動はちょっとした冒険でした。
滞在させていただいた郊外の「ミドロシアン」周辺は、コロニアルスタイルの大きな家が木立の中に建ち美しいエリアです。
自然を愛するご家族、庭は1エーカー(1,226坪)はあるでしょうか。
どの家も手入れの行き届いた美しい庭です。
早朝散歩をしていると、ゴミ出しをしている家のご主人たちが気軽に挨拶を交わしてくれます。
なにより幸せだったのは、寝起きのままベランダに出てロッキングチェアーに揺られながら女同士のコーヒータイム。小鳥の囀りを聞きながら、植物の話、人生について、大笑いをしながらのひととき。
心から力が抜け開放感が味わえるのです。
観光地めぐりもせず、女主人の美味しい料理を頂きながらの至福の時間。
厳しい世界情勢、海外で日本のことを考えるのも意義があります。
そういえばオールドリッチモンドにも行きました。古い地域で、赤レンガの家が並びイギリスからの入植者が作った街には風情があり、違ったアメリカが味わえました。
自分自身を開放させる旅も時には素敵です。


友情について
皆さんは友情についてどんなお考えをお持ちですか?
私はわりあい慎重な性格なので、人と親しくなるまでには時間がかかることもあるのですが、いったん心を許し合うと、本当に長いご縁になります。長いお付き合いの間には、子育てに没頭したり、仕事がいそがしかったり、いろいろあります。相手だってそうです。ですから、環境が変われば、関係が疎遠になることもありました。子育ても一段落した50代になり、自分の時間が持てるようになってからは、友人とお茶を飲んだり、夕暮れどき軽くカクテルなどを飲みおしゃべりをしたり・・・。
1~2年会わない時期があっても、会えば変わらぬ友情がそこにはあります。
"友情は積み重ねていくもの" だと思います。
長年、私とお付き合いが続いている人を思い浮かべると、みんな「お互いさま」という感覚を持っているような気がします。お誘いをお断りすることがあっても「お忙しいのね。そっち、頑張って。でもまた声をかけるわね」と、笑顔で言ってくれる人が多いのです。同じように私も、相手の状況は「ああ、介護で大変なんだわ」とか、何となくわかりますから「体に気をつけて。またご連絡するわ」と言って、心の中でエールを送ったりします。
「お互いに相手の世界に土足で入っていかない」
「相手の状態を尊重する」
何か他人行儀じゃない?といわれることもありますが、お互いを縛りあって、それが破綻の大きな原因になってしまっては哀しいですもの。
私にとって友人は、いつも一緒に行動する関係ではなく、心の仲間なのです。このごろ、親子関係だけではなく、友情もまた積み重ねていくものだとしみじみ感じます。
そんな長年の友人であり、「カントリーアンティーク」を日本に広めた天沼寿子さんとご一緒に1週間ほどリッチモンドの彼女の友人のお宅に滞在させていただきます。自然豊かな美しい庭、素敵なアーリーアメリカンのインテリア。
とても楽しみです。
私のちょっと遅い夏休みです。
心が満たされるような友人は、心の財産だと思います。
友情に感謝!です。
次回旅のご報告をいたしますね。
CCS15周年アニバーサリーパーティー
先日、日曜日の夕暮れ帝国ホテルで素敵なパーティーに出席してまいりました。
NPO法人カクテル・コミニュンケーション・ソサイティー(C・C・S)
「15周年アニバーサリーパーティー」
会場ではジャズがながれ、全国からカクテルファンが集いました。そして銀座テンダーの上田和夫さん、モーリ・バーの毛利隆雄さん、福岡からは長友修一さん、大森のバー・テンダリーの宮崎優子さん他、全国から「カクテル・アーティスト」が勢揃いし、それぞれが得意のカクテルにシェーカーをふってくださいました。
サイドカー、マティーニ、モヒート、ジャックローズ、ダイキリ、ギムレット、マンハッタン、バンブー、同じバンブーでも上田さんのバンブーと女性の宮崎さんのバンブーでは微妙にニュアンスが違い両方とも楽しませていただきました。
カクテルについては昨年のブログに載せておりますのでお読みください。
カクテルは幸せなときには、そっと寄り添ってくれます。ちょっぴり寂しいとき、辛いとき、心がいたんでいる時は背中をほんの少しおしてくれます。
「大丈夫、そのままで」・・・と。
バーテンダーはアーティストです。31名のアーティストのカクテルをほんの少しずつ、梅雨の合間のひととき夕暮れ時を楽しんでまいりました。ほろ酔いかげんで箱根の山を上って家路につきました。
皆さん、ありがとうございました。
これからも大人のカクテルを期待しております。


やねだん~人口300人、ボーナスが出る集落~
先日、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科主催の「やねだん学事始」のシンポジュームを聴講してまいりました。
鹿児島県鹿屋市の柳谷(やねだん)が今注目を浴びています。この柳谷を取材したドキュメンタリィー番組は南日本放送で放映され、数々の賞を受賞しました。韓・中・英語にも訳されています。私も選考委員をしております「農業ジャーナリスト賞」でも受賞されました。
日本中で問題になっている過疎集落。この集落は人口減に歯止めをかけ、独創的な地域再生を目指しました。行政の補助金に頼らず自立した集落再生を見事に描いています。
この日のパネリストは
リーダーの豊重哲郎氏 (鹿児島県鹿屋市柳谷自治公民館館長)
山縣由美子氏 (南日本放送キャスター、デレクター)
佐野眞一氏 (ノンフィクション作家)
椎川忍氏 (総務省地域力創造担当審議官)
コーディネーター
高橋紘士氏 (立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授)
製作者である山縣さんとは授賞式でもお話することができました。12年近く現場に足を運び、住民に寄り添うようにカメラを回し、痛快に!なによりも明るく、小さな取り組みを丹念にとらえています。
人口300人、うち65歳以上が4割。耕作放棄地も空き家・廃屋も目につく農村集落をボーナスが出るほどの集落へと導いたキッカケ、人々の思い。番組を上映し、それぞれのお立場からの発言は大変興味あるものでした。
これからの私たちが暮らす、この日本のあり方を再確認し、地域づくりの在りようを考えさせてくれるシンポジュームでした。
MBCからDVDが出ています。 《やねだん》3,000円

田植えとなんじゃもんじゃの花
先日久しぶりに若狭の我が家へ帰ってきました。
福井県大飯町三森に私の家があります。この家も箱根の家同様、壊される寸前に出くわし譲っていただいたものです。背後に竹林、前に田んぼと佐分利川が広がります。

この20年余り、都会に生きる消費者の一人として日本の農業というテーマに深い関心を抱き、あちこちの農村を訪ね歩くうち、私の中で少しずつ、生産に対する限りない憧れが募っていったのです。
私自身は生産者と呼ばれる者にはなれなくても、自分のこの手で無農薬米を作るという行為に挑戦してみたら、実際の米作りの苦労や喜びがもっと理解できるのではないか、農民の方々のお心に、もう少し近づけるのではないか・・・そんな思いが膨らんで、若狭の私のお米の先生・松井栄治さんの手ほどきで素人の私も田植えから収穫までの経験をさせていただきました。
10年間・10回の経験でした。
日本のふるさとの原風景そのものの若狭三森。松井さんの田んぼの田植えもほぼ終わりました。そして、まもなく、この田んぼや木々に蛍が見事な乱舞を披露してくれます。
帰り道、近くの集落で生まれた作家・水上勉さんの"若州一滴文庫"に寄ってまいりました。
「家には電灯もなかったので、本も読めなかった。ところが諸所を転々として、好きな文学の道に入って、本をよむことが出来、人生や夢を拾った。どうやら作家になれたのも、本のおかげだった。」と水上先生語っておられます。
この文庫には所蔵本・水上文学にゆかりの深い作家の絵画作品、水上作品に登場する人物の竹人形などが展示されています。
何度も通った場所です。今回は、新緑に映える「ヒトツバタゴ」別名「なんじゃもんじゃ」が満開です。まるで雪化粧のような美しい花。20年ほど前に植樹したそうです。「ヒトツバタゴ」はモクセイ科の落葉樹。中部地方や対馬地方に自生し、4つの花びらをつけます。
なぜ「なんじゃもんじゃ」なんて名前がついているのでしょうか。岐阜県瑞浪在住の方がわざわざ自動車に積んで、この花の苗木5本を一滴文庫に運んでくださったそうです。水上さんのエッセイにこのように書かれています。
「天然記念物の学名は、『ひとつ葉』となっているようですが、瑞浪市はみななんじゃもんじゃといっています。ある学者の説によりますと、冬が去って、春が逝き、ようやく青葉の頃がきたというのに、急にこの木にだけ雪がつもるようなので、これはなんじゃもんじゃ、と岐阜なまりでたまげることから生まれた名だときいています」と。
美濃の国では、おっ魂消(たまげ)た時に"なんじゃもんじゃ"というとか。

ゆうゆうサロン
昨日(14日)雑誌"ゆうゆう"の読者の方々と、東京・目白の椿山荘で「旅とおしゃれと人生と」をテーマにお話をさせて頂きました。新緑の美しい庭の見える会場は、おしゃれをした女性たちでいっぱい。
第1部はスタイルスト石田純子さんの
"もっと楽しく、センスよく~大人の旅スタイル"
石田さんのアドバイスによって旅することが楽しくなりそうです。
第2部で私は"箱根の暮らしと旅での出会い"をテーマにしました。
"ゆうゆう"での4年間の連載を一冊の本にまとめてくださいました。
ゆうゆう読者は50歳代から60歳代。連載開始当時60歳になったばかりの私。読者の皆さんと共に身近な暮らしを見つめ直し、等身大の自分の気持ちを、ありのまま語らせていただきました。
これまであまりプライベートについて語ってこなかった私ですが、働く女性として感じたことや子育てをしながら感じてきたこと、あるいは母でも妻でも女優でもないひとりの人間として感じたことなど・・・。
ありのままを語ることは、とても新鮮であると同時に、厳しい作業でもありました。けれど、連載を通して自分を振り返ることで、私自身、しっかりリセットできたような気がします。
昨日は同世代、ちょっと下の世代、年齢を越えて同じ女性同士。とても楽しいおしゃべりができました。
私の女優時代。
「名優たちに囲まれていた60年代の東宝撮影所」。1961年の私は17歳、映画デビューの年でした。今思い出すと夢のような時代、まさにキラ星そろい・・・
スターの時代でした。
「銀座の恋人たち」
「キングコング対ゴジラ」
「クレージー作戦」
「無責任シリーズ」で植木等さんたちとの共演の時代もありました。
今のようにスタイリストの方がいるわけではなく、スタッフの方々と衣装を決めていました。当時の撮影所の雰囲気は忘れられません。映画のよき時代に仕事ができたことが、私にとって一番の収穫だったと思います。
私の憧れの中の憧れ、原節子さんを何度もお見かけしました。いつも背筋を伸ばし歩く姿が美しいのです。原さんの美しさは何かあたりをオーラで包むような「気」がありました。
そして旅の始まり。
イタリア映画に魅せられていた私は迷うことなくイタリアに向かいました。17歳のひとり旅。数々の名作を生んだチネチッタ撮影所、大フアンのマストロヤンニさんの芝居、見たい!一生懸命さが何より雄弁です。マストロヤンニさんの楽屋までたどりついたのですから。額に光る大粒の汗に、俳優の仕事の結晶のようなものをみたのです。
女優という仕事に、どこか徹底できていないでいた私の気持ちをふっきらせてくれたとでも申しましょうか。その時にご一緒に撮らせていただいた一枚の写真。私の宝ものです。

マストロヤンニさんの額の汗に当時の「私」は突き動かされたのでした。
それからたくさんの旅をしてきました。なぜ・・・旅をするのか。私自身にとって"旅"はいつも学校でした。塾であり、思索の場でした。
いつか教わったことがあるのですが、昔、旅という字は、今の旅行の旅ではなく「賜る」という字を書いて「賜ぶ(たぶ)」と読んだそうです。人の出会い、人から必ず恩を頂く。ちょっと"おしゃれをしてこれからも心賜る旅"を続けたいと思います。
そんなお話をさせて頂きました。読者の皆さまの日ごろの思いも語っていただき、和やかに会を終えました。
ゆうゆうは今年創刊7周年になります。これからも私達女性の身近で素敵な存在でいてくださいね。

「日本メキシコ友好400年記念特別企画・メキシコ音楽祭2009」
本日 5月8日紀尾井ホールでのコンサートが中止になりました。私も行く予定にしておりました。ご存知のように「新型インフルエンザ」の感染者数は、メキシコで1204人、死者44人 世界の24の国と地域で2400人を超える感染者が確認されました。これ以上感染が拡大しない事をただただ祈るばかりです。
今回のコンサートによせて帰国なさり準備に追われていたバイオリニストの黒沼ユリ子さんを文化放送「浜美枝のいつかあなたと」に1ヶ月ほど前お招きしお話を伺いました。
黒沼ユリ子さんは東京のお生まれ。
小学校在学中からバイオリンを始められ、高校1年生の時、日本音楽コンクール1位を受賞。1958年、プラハ音楽芸術アカデミーに進まれ、同校を主席で卒業されました。そこから世界的なバイオリニストの道を歩み始めます。ヨーロッパで考古学を学ぶメキシコ人男性と結婚。62年からはメキシコを本拠に世界各国で演奏活動を始められ、各地で多くの聴衆にバイオリン演奏の魅力を伝えてこられました。
2008年、メキシコ最高の音楽賞「モーツアルト・メダル」を受賞。
受賞理由のひとつとして、1980年から続けられている「子供達への音楽教育」があると伺いました。(80年に設立した「アカデミア・ユリコ」で子供達に音楽教育を行っていらっしゃいます)
1983年、ユリ子さんは日本全国に子供用のバイオリンの寄付を呼びかけました。メキシコには子供用のバイオリンがなく、大人用を使っていたそうです。日本の子どもたちから百丁のバイオリンがメキシコに届けられました。
1985年、学院の生徒たち12人が来日し、各地でお礼のコンサートを行いました。その半年後、メキシコは大地震に襲われます。
日本の子供達はさっそく義援金を集め、メキシコ大使館に贈ったそうです。
「今では、学院の卒業生は1,000人を超え、演奏者として活躍している人もいます」とユリ子さんは語られます。
ユリ子さんには「メキシコのわが家へようこそ」というご本があります。
メキシコの邸宅「カーサ・デル・ヴィオリン(バイオリンの家)」での暮らしを紹介されたご本です。メキシコの食材・食べ物がいかに豊かであるかが記されています。
「なんだか、昔、日本で食べた本物の味がするの・・パワーが貰える、というような、今風ではなく古風な味のままなの」と語られておられました。
今回の「メキシコ音楽祭2009」の副題に「400年前の人類愛記念」とあります。
今年は日本メキシコ友好400年。1609年、メキシコの帆船が千葉県御宿沖で座礁した時、地元民が総出で317名の遭難者を救出したのが友好の始まりです。
国や文化圏の違う人々の音楽祭でしたが、残念です。
友好の架け橋になっておられる黒沼ユリ子さん。
いつでも私たちはお待ちしております。
そして、これ以上「新型インフルエンザ」の感染が拡大しませんように。

唐津・洋々閣への旅
皆さまはゴールデン・ウイークはどのようにお過ごしでしょうか?
私の住む箱根のこの時期は身動きが取れないほどの渋滞になってしまうので、自宅でのんびり過ごすことに致しました。そんなこともあり、先週かねてから念願だった唐津の「洋々閣」に行ってまいりました。そこで「中里隆のうつわ展」が開催されているからです。
「洋々閣」は私の憧れの宿でした。
唐津には何度かお訪ねしているのですが、敷居が高い・・・宿でした。
今回ようやくその夢がかないました。この宿は九州の中でも格別の宿です。
無人駅の「虹の松原駅」から宿にたどり着くまでが、まるでドラマのようでした。
無人駅には藤の花が咲き誇り、旅人を迎えてくれます。
宿には郷土を愛する人々の愛と理想と夢が込められています。
私は、一度親しくなると、人でもものでも、長くお付き合いをさせて頂くのですが、最初の一歩がなかなか踏み出せないところがあります。意を決して泊めていただきました。
"大正解"でした。
まず、中里隆さんの素晴らしい作品に出逢えたこと。かねがね中里さんのお噂は伺っておりました。七十歳で窯変した記念すべき展示でした。
(5月31日まで開催)
世界を旅し、その土地ならではの土を用い作陶に没頭された姿が想像できます。
今回、私は"ピッチャー"をもとめました。
「用の美すなわち日常に使えてこそ"美"は存在すること」を見事に表現してくれた展覧会でした。時を忘れたように、数々の作品に見入りました。
宿のご夫妻の美意識のこだわりを拝見いたしました。
日本の美を体現しているような静謐な美しさをたたえている旅館でした。
玄関を一歩入ると「花守」になる壷の活花。
器好きにはたまらない程の"器と料理"・・・全てが満足の滞在でした。
なによりも感じたことは「宿の主人と作り手の作家との"心の通い合い"」でした。素晴らしい滞在に感謝し、清清しい気持ちで帰路につけたことに心より御礼申し上げます。


親子で学ぼう!春の温暖化防止スクール
先日楽しいイベントに参加いたしました。
「親子で学ぼう!春の温暖化防止スクール」です。
小田急電鉄が運行する 臨時列車「エコ・ロマンスカー」に一般親子50組100名をご招待し、ロマンスカーには環境大臣、箱根副町長、小田急電鉄社長、小田急箱根ホールディングス社長、気象予報士、森田正光さん、そして私でした。
このイベントは3月から始まった「箱根がエコになる!低酸素社会づくりキャンペーン」の一環として開催されました。新宿駅に集合しロマンスカーに乗り込みました。約1時間半の小さな旅です。
気象予報士ハレルヤの方々による気象実験教室、森田さんのお話「気象と地球温暖化の影響」はとても分かりやすく、楽しみながらの勉強に小学生の皆さんの目は輝いていました。
私は住民代表としてこんなお話をさせて頂きました。
「箱根に住んで30年。最初は子育てに良い自然の環境に惹かれて移り住んだのがきっかけです。
まず今日皆さんに一番お話したいと思っておりましたのは、「地産地消」のことです。「地産地消」とは、神奈川県にお住まいならなるべく神奈川で採れたもの、東京の方なら近郊のものを進んで食べるようにすれば、食べ物を遠くから運んでくるのに排出されるCO2の量を減らすことができます。
フードマイレージという言葉を知っていますか?
食べ物の量と運ぶ距離をかけたもので、この数値がとても高いのが日本なのです。日本はそれだけ遠くの国から食べ物を運んでいます。運ぶためには飛行機や船やトラックなどを使うため、沢山のガソリンが必要となり、その結果CO2排出量が増えてしまうのです。
フードマイレージを小さくするために一番良いのが「地産地消」なのです。皆さんが地元のお野菜などを進んで食べるようにしていただけると、この数値がどんどん減って環境への負担も軽くなります。
それから皆さんにお願いしたいのはご飯を残さず食べること。生ごみを出さないということもエコ活動につながります。
お父さん、お母さん達にも是非お願いしたいことがあって、実行されている方も多いようですが、日ごろからエコバックを持ち歩いて欲しいということです。
エコ活動は何も難しいことではなくて、こういった日々の生活の身近な部分にも私たちができることは沢山あります。大切なのは一人ひとりがちょっと気をつけること。皆んなで頑張っていきましょう。」
と、このような話をさせて頂きました。
ドイツの環境規制は世界一厳しいといわれます。
私も、グリーンツーリズムの旅で何度もお邪魔していますが、その徹底ぶりにはいつも舌をまいています。ドイツも、日本同様、戦後、環境破壊が進みました。しかし1980年代に入って、国をあげて自然環境保護に取り組むようになったのです。今、ドイツに広がる緑豊かな森の多くは、破壊から再生への道をたどったものだそうです。
こうした、自然環境保護を支えるのが、環境教育です。
子どもたちに自然を身近に感じてもらうために多くの学校が環境に配慮した校庭づくりをし、そこにビオトープ(生物の生息場所)を作っています。自然を身近に感じることが、自然を大切にすることの原点であるという思想がそこにあるような気がします。
ご一緒した50名の小学生の皆さんが"何か"を感じてくれたはずです。
皆さんには、この日のために特別に、特製地産地消弁当とロマンスカー・MSEランチボックスが用意され、のんびり楽しい旅でした。

寒椿の似合う壷
生きることは ひとすじがよし 寒椿
この句は、私たち映画界の大先輩である五所平之助監督が詠まれたものということです。
箱根の山々に吹く風も初春を感じるようになりましたが、まだまだ肌寒く、この季節に自然とその大好きな句が思い出されます。
朝、まだ冬枯れの庭にでてみると、霜柱が立っています。そんな庭に、ひときわ鮮やかに咲き誇る寒椿の花。寒風に吹かされながらも凛と華やかな薄紅色の花弁は、ひとすじに生きることの美しさと尊さを教えてくれるようです。
モノトーンの風景のなかにあでやかに咲く寒椿にしばし見惚れ、そのひと枝を手折って家の内に戻ると、囲炉裏のある部屋の窓辺に、小さな壷が待っています。
すでに45年間私と共にあって、ずっと私の半生を見守り続けてきてくれた信楽の壷「蹲」うずくまる・・・。その素朴で荒削りな、それでいて繊細さも併せ持った花器には、冬の寒椿が一番似合うのです。
春や秋の季節にその壷に花が生けられることはほとんどなく、いつもただじっと窓辺の同じ場所に蹲って、寒椿の挿される冬を、ただひとすじに待ちつづけます。薄暗い部屋のそこだけに灯りがともったよう・・・、私はしばしその場に寄り添いながら、「蹲」と出逢った遠い昔の冬の日のことを思いだします。
この壷はかっては種壷として使われていたとか。

ばっちゃんからの贈り物
大切なものは、土と太陽の匂いがする
ばっちゃん・・・ふるさとだよりの品々が届きましたよ!
栗の渋皮煮、豆糖(みそ味)手づくりジャム、凍りもち(ついた餅を寒風で乾燥させ、砂糖醤油で味付けしたもの)おたっしゃ豆(まめで達者での願いを込めて)にんにく醤油・・・そして、おみ漬け(山形名物のつけ物・青菜の浅漬けは、納豆を混ぜたりお茶漬けでも美味しいとか)

先日、山形県西村山郡大江町に伺ってまいりました。
県のほぼ中央に位置する村山盆地。
柏倉吉代さん(74歳)、横山みつよさん(77歳)、JA高取部長さんをはじめ30代・40代の女性達「JAさがえ西村山」のみなさまの活動を知ることができました。
加工所がある18才(じゅうはっさい)という集落名は、月布川に注ぐ十八番目の沢「十八沢」に由来したとも言われていますが、ばっちゃん達はまさに18歳!そのもの。
28年前にはじめた「もったいない、無駄なく」との思いはまさに今、求められていること。
地域の伝統を大切にし、大江町らしさをだした女性ならではの知恵と技によって、「我が家に伝わる秘伝の味」「子や孫に食べさせたい味」をモットーに受け継がれてきたのです。
"おみ漬け"・・・のなんと美味しいこと。
山形青菜はボカシ肥をいれた土づくりを条件にしているそうです。


「土」が総てを知っています。
私は40年にわたり、日本の農山漁村を訪ねてきました。
最初は民藝に惹かれての旅でした。
やがて、農山漁村の現場を知ることになりました。
第一次生産者が誇りをもって農業・漁業・酪農などに従事できるように、そして消費者が確かな目を育てられるように、ひいては「安らぎの食卓」を支える安全な食品を誰もが当り前に手に入れるようになればと、私なりに情報を発信し、提案を重ねてきたつもりでおりました。
ですから、近年続出した食をめぐる数々の事故・事件は衝撃そのものです。「損得」でビジネスを考えるのではなく、「善悪」という視点から捉え、信頼で生産者と販売者と消費者が互いに切磋琢磨できる関係を作り上げる。
「体に悪いものは作らない・売らない・買わない」という関係をつくりましょうよ。
けっして夢物語ではありません。
だって"ばっちゃんの贈り物"が証明してくれていますもの・・・。
全国には、こうした"正直な味"がたくさんあります。
成人の日によせて・・・ "どんぐりに乾杯"
我が家の子ども達はとうに巣立っていきました。
次女が成人の日を迎えた時の写真が仕事部屋に飾ってあります。
そう、あれはその頃の話です。
森を歩くことは人生を歩むことに似ていると、その日もしみじみ思ったことでした。軽井沢の野鳥の森で馬場さんという森の先生にお会いしました。野鳥の名前や習性や木々のはなし・・・。うかがいながら歩く森は、生き生きと生きる森。なかでもドングリの話は、本当に感動的でした。
ドングリの実って、ほら、先がつんととんがって、まあるく台座にのっかっていますね。あの形にはワケがあるのだそうです。
馬場さんのお話によると、こうです。
「ドングリが地面におちるときが種の旅立ちです。どうおちるかで、種の生存、繁栄が約束されます。もしドングリがただまんまるというのでは、溝やくぼみにはまって枯れてしまう。まんまるではないことで、ドングリは遠くへころがっていけるのです。親木の下にいたのでは、葉が繁ってくると成長できません。できるだけ遠くへ飛んでいくことで、ドングリはぐんぐん成長できるのです」
すごい話だと思いませんか。
"親は永遠に思い続ける"
子育てには、3つの段階があるのではないでしょうか。
おなかに命を宿してから、小学校に入るくらいまでは、親にとって子どもは守ってあげなければならない存在です。そして、小学校2~3年生から17~18歳までは親子が共に育っていく時期。子どもは反抗期などを経験しながら自分自身を発見していく時期であり、親はそうした子どもと正面からぶつかり合うことが求められるのではないでしょうか。それから、20~22・3歳までは、子どもが自立して大人になるのを、親は陰ながら見守る時期だと思うのです。
これら「肉体・精神そのすべてを守る→共に育つ→精神的に見守る」という3段階を通して、親は子どもを社会に送り出すことを、私は4人の子育てを通して学びました。そうはいっても、子育ては1本の道ではありませんから、悩んだり苦しんだり、ときには立ち止まったりしました。
子育てを通して、自分の至らなさも見えました。子どもが自立して親の元を離れていくのが、寂しいという人がいますが、私の場合はむしろ安堵感のほうがはるかに大きかった感じがします。そう思えるのは、子どもが巣立っても、母親としての役目は完全に終わるわけではないと思っているからかもしれません。
永遠に親は親であり、子どもの幸せを願い続けるものなのでしょう。
"成人の日"
親は、遠くから「がんばって」と祈るだけでいいのではないでしょうか。それ以上の親の介入は、子どもにとって障壁になりかねないものではないでしょうか。 "ドングリの世界のように"
謹賀新年
2009年、新春のお慶びを申し上げます。
みなさまはどのような新年をお迎えでしょうか。

年の初めというものは自分自身の進むべき道をいつになく真面目に考えて、希望がわき上がる反面、心が揺れたり理由もなく不安になったりするもの。そんな癖は、私だけのことでしょうか。
子どもたちが巣立った後に、これからは思いきり自分自身のための人生に出発しなければ・・・この辺でもう一度自分をみつめ直さなければいけないな・・・とそんなことを考えつづけてきた年の初め。
今は亡き「松本民芸家具」の創始者である、池田三四郎先生のことを思いだします。先生にお会いしてたっぷりとお話をうかがうと、いつも魔法をかけられたように元気になって箱根の山に戻ることができました。
ある晴れたお正月、新宿から「あずさ号」に飛び乗り松本まで。
駅前の喫茶店に入り、クラッシックを聴きながら香ばしいコーヒーの香りを楽しみ、心のウオーミングアップをするのです。
富山県八尾の入母屋造りの大きな農家を移築して、昭和44年に建った家。
私はよく先生のお伴をして周辺の山々が見渡せる丘に登ります。
民藝運動の創始者、柳宗悦も、また、宗悦に心酔していた版画家の棟方志功も同じ丘に登っては、ただじっと一点をみつめたまま「自然というのは、仏か、仏でないか」、「自然以上の自然が描けたら、それが、まさに芸術と呼ぶに値するものだろうなあ」と繰り返していたといいます。
秀れた先人たちは皆、自然に対して深い畏敬の念を抱きながら、大自然を父として、母として生きてきたのです。
そして池田三四郎先生はそのご著書のなかでこう書かれています。
「人間が自己の力を過度に評価し、科学を過信し、一切を知性によって合理的に究め得ると錯覚した時代は、その後の日本が歩いた道であった。自然に対する人間の勝利とは虚妄の勝利であったのではないか。近代精神のもたらしたものは人間の傲慢であった。その傲慢さの故に、自己の創った科学文明のために自分自身が復讐されつつあるとは言えないか・・・」と。
しかし、目の前の先生はストーブに薪をくべながら
「一本のねぎにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美があるんだ。問題は、人間がそれを美しいと感じる心を身体で会得しているかどうかなんだ」
と淡々と語られました。
私は、年の始めに自分自身の過去と未来を見つめ直しているうちに、この先どういう場所に身を置くべきかを考えます。
いたずらに過ぎてしまった過去や未知の未来を思い慕うよりも、
いま自分の手にしている現在を、いま身の回りにあるものを真摯にみつめて、それらを大切に暮らしていきたいと思います。

世界中から、戦争がなくなりますように・・・。
人々の暮らしが穏やかでいられる世の中でありますように・・・。
そんなことを願った新年です。
2009年がみなさまにとって良き年になりますように。
"ゆうゆう読者"とのクリスマス
年の終わりに。
みなさまにとって今年はどんな年だったでしょうか。
私は今朝も、箱根の山を1時間たっぷり歩いてきました。
初冬の凛とした空気の中での山歩きが日課になって3年近くになりました。杉の木立の道、杉の枝の間から朝の光が差し込み、とても気持ちがよいのです。空気は冴え冴えと冷たく真っ白に雪化粧をした富士山。
以前は、ただ美しいとだけ思っていた風景が、年々深く心にしみるようになりました。
この度、4年間連載してきた雑誌"ゆうゆう"を本にまとめ、等身大の自分と向き合うことができました。
このまま、50代のスピードで走り続けていくことが私にとって幸せなのか・・・
明日もまた、今日と同じような日々が続く・・・それが当たり前だと心のどこかで思っていました。しかし、65歳になり山歩きをしながら、箱根の山のエネルギーをもらい、お気に入りの木に触って「おはよう!」と声をかけ、絶景ポイントで、ストレッチをやって・・・歩いているうちに、心からはよけいな澱みのようなものがはがれ落ち、やがて心も体も軽くなってくるのです。
今年もたくさんの旅にでました。
素敵な出会いもいただきました。
自分を見つめ、心の荷物を整理することができました。

先日、ゆうゆうの読者の皆さんと「箱根のクリスマス」を楽しみました。
今年も大勢の方々がご参加くださり、同世代・ちょっと下の世代の方・・・女同士のおしゃべりを楽しみました。夜のパーティーではこんなご質問も。
「浜さんの健康の秘訣はなんですか?」・・・と。
私は「まず、歩くこと。歩いて新鮮な空気と"気"を取り入れること。あとは、くよくよしない!今日嫌なことがあっても、明日にはきれいに忘れることですね」と申し上げました。
今年は暗いニュースが多かった中、日々の生活を大切にし、一歩一歩、前に進んで参りましょう。

みなさま・・・どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

宮城の旅
宮城を旅してまいりました。
今年、6月7,8日と「食アメ」の皆さんと鳴子を旅し、地元の方々との素晴らしい出会いの場がありました。
それから1週間後の14日8時43分ころ、岩手、宮城で震度6強の地震が発生。その後が気になっていましたが、12月26日に仙台で開催されるイベントのため、宮城を一巡り・・・というチャンスに恵まれ伺ってまいりました。鳴子温泉・鬼首(おにこうべ)の方々との再会は逆に私が勇気づけられるほどのものでした。
鬼首の取り組みについては来週「NHKラジオ深夜便」で詳しくお話いたします。
東京から"はやて"で古川へ。
そこから陸羽東線リゾート列車で晩秋の柔らかな日射しの中を鳴子温泉へと向かいます。現代の湯治について熱く語る大沼さんと、これからの湯治について語り合い、農家レストラン「土風里」ではどぶろくと地元野菜の料理を堪能。ここにも豊な食材と笑顔の美しい女性たち、そして、海の豊かさを育む人たちとの出会いがあります。

美味しい牡蠣を作るために、志津川では漁師が山に木を植えています。
"森の栄養が川や海の命を育てる"
「森は海の恋人」という素敵な本に出会ったのは20年ほど前のこと。
主人公は、唐桑町在住の牡蠣養殖業者・畠山重篤さん。畠山さんは、父から継いだ牡蠣やホタテ貝の養殖をしているのですが、1965年頃から、目に見えて海の力が衰えてきたことに気がついたそうです。
「なぜ、海がこんなに力を失ってしまったのだろう」と考えた畠山さんの脳裏に浮かんできたのが、かつて視察で訪ねたフランスのブルターニュ地方の風景だったそうです。ロワール川の河口には、見事な牡蠣が育っています。干潟にはカニや小エビ、ナマコがたわむれていました。その海を見たとき、畠山さんは「これはかつての宮城の海だ!」と感激したそうです。
それから一心に考えました。宮城の海とブルターニュの海と、一体、何が違うか。
"それは、森"
ブルターニュの山々は広葉樹の森が広がっています。
海の源は川であり、川の源は森ではないのか。
もう一度、宮城の海を生き返らせよう、そのために山の森を再生しようという運動を始め「牡蠣の森を慕う会」が生まれ、気仙沼湾に注ぐ大川上流の山に集い、広葉樹の植林を行ってきました。
その村は岩手県の室根村でした。
その思いが志津川の漁師たちにも受け継がれているのです。
現代の日本は、林業という産業が成り立ちにくい社会になっています。
森の豊富な栄養分が水に溶け、川を通って海に注がれ、海の生物たちを育てていくのです。農村の山々の自然が、海の自然に大きく影響していくのです。水は流れ、地球を循環していくということを、私達は忘れてはならないのです。
森、山、川、海、生物の命、そして私たちの命。そのすべてが連鎖しています。
宮城の美しい海がいつまでも守られますように・・・と願いました。
採れたての牡蠣・アワビを船上で食べ、「美味しい!」と思わず叫んでしまいました。

塩竈では"ひがしもの"(塩竈のブランドメバチマグロ)談義。
美味しいネタとは新鮮なだけではなく、寿司屋とマグロを選ぶ「目利き」の仲買人の存在が大きいことを知りました。地酒とひがしもの・・・ごちそうさまでした!

12月26日は杜の都「仙台」を"伊達"に演出するイベント「仙台・宮城デスティネーションキャンペーン・ファイナルイベント」に参加いたします。
「凛として、箱根暮らし」
これまであまりプライベートについて語ってこなかった私ですが、働く女性として感じたことや子育てをしながら感じてきたこと、あるいは母でも妻でも女優でもない、ひとりの人間として感じたことなど、等身大の私を、これまで雑誌「ゆうゆう」で連載してきました。その連載を「凛として、箱根暮らし」(写真:大倉舜二氏)として一冊の本にまとめ、その作業を通して、自分に真摯に向き合うことができました。
またこの本の出版を契機に、私の愛する箱根の家に新たな風を呼び込むような活動をスタートさせたいと強く思い始めました。今後は農と食の仕事を続けながら、日々の暮らしを豊にする様々な提案を箱根の家から行っていくつもりです。
私の10代は、生きるために何かをつかまなければと必死になった時代。
20代は自分の居場所を作ろうともがいていた時代。
そして30代は、仕事や家族のことなど、このままでいいのかと思いつつ、体力気力で何とか乗り切った時代。
40代は家族との関係も変化し、同時に次々に4人の子供たちが思春期を迎え、時に立ちつくしたりもした時代。
50代はそれまでの心の整理をしたりして、元気を取り戻した時代。
ひとつ山を乗り越えたとホッとして、顔を上げると、また別の山が前に控えているような人生を私も送ってきました。けれど連載を通して自分を振り返ることで、私自身、しっかりリセットできたように思います。
「ゆうゆう」の連載をしている4年の間に私も60歳から秋に65歳になりました。時は過ぎゆくのだとしみじみ感じます。私も、思い出が鮮やかさを増す年齢に入ったのでしょう。
いつしか孤独を感じる自分をいとしい・・・と思うことができるようになりました。その裏に、私がこうして今、生きていることに感謝する気持ちが隠れていることにも気づかされました。
これからも私らしく。
10年後の光を目指して、身の丈の暮らしをもとめてまいりたいと思います。
本日12月5日から 書店に並びます。
発行 主婦の友社 「凛として、箱根暮らし」

美の里づくりコンクール~岐阜県下呂市
私は、「美の里づくりコンクール」~景観を育み、生かす農村アメニティー~の審査委員として全国各地にお訪ねしております。
物質生活水準がある程度達成された今日、私たちの価値観は経済優先から生活充実優先へ、成長思考から安定志向へ、さらに物の豊かさから心の充実へと大きくシフトしてきました。量的な満足感から、より良い質を求める暮らしへと変化してきたのではないでしょうか。
現在、さまざまな景気の揺れによって多少の傾きはあるものの、暮らしの質への追求はさらに先鋭化していくでしょう。
やすらぎや快適な空間享受の経験は、私たちが手放したくないアメニティーの一つです。緑の環境下で暮らすこと、ゆとりや心地よさは誰もが願う事です。都市生活者の土離れが顕著であるのに対して、農村のアメニティー=居住快適性はより大きな暮らしの価値観になっています。
このコンクールは、農村の快適居住性を評価するものであり、当然その評価の中に住民の自主的努力が環境の保全ならびに新たな形成の動きも示していて、この表彰事業が継続されています。この20年あまりの調査において、その概念の理解とそれへ向けての努力の足跡は目をみはるものがあります。
ひるがえって見れば、都市部においてそのような、暮らしの改善や工夫、よりクリエイティブなアメニティーへの取り組みがどの位あったでしょうか。
幾多の山並みと清流の織り成す自然環境に恵まれ、先人から受け継がれてきた歴史的に価値ある文化遺産が多く残されている、そんな集落の数々をお訪ねしてきました。
岐阜県下呂市・・・馬瀬(ませ)地域。
人口1、545人、地域の95%が森林で占められています。平成8年には「馬瀬川エコリバーシステムによる清流文化創造の村づくり構想」を策定し、「山村景観」や「自然環境」の保全を展開してきたところです。
馬瀬は下呂温泉郷から、15キロ山間に入ったところ。
平成19年9月には、全国の清流の鮎の質を競う品評会「全国利き鮎会スペシャル」が東京において開催され、馬瀬川上流の鮎がグランドチャンピオン(日本一)に輝きました。観光客は釣りの4万人から30万人に急増したそうです。都会からの子どもも含め地元の子供達の夏の川遊びが脅かされつつあるといっていいかもしれません。
「日本で最も美しい村」連合に加わる馬瀬地域・西村地区では住民らが「ホタル同好会」を結成し、蛍の餌になるカワニナ保護活動も始めたそうです。
【馬瀬地方自然公園・住民憲法】も策定され、住民が一丸となって美しい環境保全に取り組んでいる姿に私は胸が熱くなる思いがいたしました。
"森が魚を育て、川が郷(むら)を興す。
旅人は静かに・・静かに・・訪ねてください。


紅葉が深まる箱根にて
12軒の古民家を譲り受け、1本の木も無駄にしないようにと、作り上げた箱根の家。
この家に住み始めてから、30年以上の年月が流れました。4人の子どもたちも、それぞれ自分が生きる道を求め、社会に巣立っていきました。
今、箱根の家は、大人だけの静かな空間になり、また新たな表情を見せてくれています。
2年前からは、長年親しくさせていただいている京都「ギャルリー田澤」主催の展覧会も大広間で開催するようになりました。それらの会を重ねるたびに、「他にはない、この家をもっと活用して欲しい」「人々が集えるサロンを開いて欲しい」という声が、驚くほど多く寄せられました。
皆さまの声に背中を押され、振り返ってみますと、確かに、箱根の家は、家族が暮らすためというだけではなく、当時、壊され消えていくだけだった古民家がしのびなく、その美しさを何とかとどめ、次世代につないでいくことができないかという思いで建てた家であったことに、改めて気がつきました。
同時に、この箱根の家をこれからもっと活用することが、私に与えられたもうひとつの役目のような気がしてきました。
来年の春に向け、少しずつ始動していきたいと考えています。
明日に向かう力を呼び込むような、あるいは日常に彩が戻ってくるような、素敵な企画が生まれましたら、ご案内させていただきます。
写真はとある旅企画でお越し頂いた皆さまと。多くの方とより上質で、有意義なひと時を過ごせれば、と思っております。

若狭路
若狭路を旅してまいりました。

福井県大飯町三森に、私の家があります。
この家も取り壊される寸前に出くわし、譲っていただいたものです。
この家は別の場所にあったのですが、最初に借りた土地が、私の理想の立地だったんです。背後に竹林、前に田んぼと佐分利川。だから、家の方をこちらの土地によいしょ、よいしょと運んでもらいました。そうしたら、私が夢に描いた"日本の農家"が出現したというわけなんです。
浜さんはなぜ、農業や農家に感心があるのですか、という質問をたくさん頂きます。
最初は国土庁(現在は農林水産省)「農村アメニティー・コンテスト」、現在は「美の里づくりコンテスト」の審査委員を20年近くしております。
このコンテストは農村という限られた範囲だけを対象とするものではなく、この国の未来をも問う意味合いがあるんです。農業は食と、食は生命と結ばれています。農業のありようが、そこに住む人間に快適環境を与えているかを、問う審査なんです。
快適であるための基盤整備などハード面だけでなく、そこに生きる人々の生きるエネルギーのありようも含めて、つまりはその姿をアメニティーといいます。そのような政府の仕事にかかわる中で、私自身が大いに触発され、勉強しながら、自分なりにできることから始めてみようとしました。
若狭・三森の家、ここで、まず、米を作ろう、そう決心しました。
「10年はやってみよう」
凝り性の私ですから、米作りは地元のベテラン専業農家の松井栄治さんのおかげで、素人の私も田植えから収穫までの農業を知ることができました。土と水と苗、それを支配する天候。見守る人間。こういう営みの繰り返しで人類は生き延びてきたことを思うと、やはり田植えは神聖な行事だなぁと思います。
(現在は松井さんご夫妻におまかせ・・。ブランド名は「浜美枝のひとめぼれ」)
なぜ、若狭だったのか・・・。
初めはもちろん旅人としてここを訪れました。
2、3度目だったか、小浜の冬の市場に行ったことがありました。日本海の魚のおいしさに感動し、その時いただいたお酒が「濱小町」という銘柄だったんです。(残念ながら現在は造られていません)
あ、これは私のお酒、自分の酒、つまり自酒。
そのお酒とあらゆる魚の美味にうたれて、すっかり若狭フアンになったのが、最初だったと思います。若狭の新鮮な魚はもちろん美味しいのですが、この地の魚加工の歴史と技術は日本一だと思います。

若狭は京都の台所でもあります。一塩に加工されたカレイやカマスなど絶品です。鯖街道もありました。今回も市場で魚や若狭カレイの干物などを我が家に送り、私は市場の食堂で早朝、焼きさば定食(900円)を食べました。
旅から始まり、食に感動し、そして家にたどりつき、田んぼまで。
私の旅はこうして農業にたどりついたのです。
ちょうど、そのころ農村のお母さんたちとヨーロッパの農村を訪ねる旅にでていました。そこで視察したのは、農村女性たちによる"グリーンツーリズム"でした。
都会に住む人に農村でゆっくり休暇をとってもらい、農家は現金収入を得る。EU諸国は各国とも、"グリーンツーリズム"を提唱しています。20年ほど前のことです。
私も農家のミセスたちともそんなことを話しておりました。
ようやく、世の中はファーマーズ・マーケット、農家レストラン、農家民宿へと感心がよせられる時代になり良かった!・・と思います。
片道七時間はかかる若狭までの道のりを、なんの苦もなくせっせと通っていた時代。
やっぱり若かった・・・のですね。
御食国(みけつくに)小浜は「とらふぐ王国」、昨日からズワイガニが解禁になり、浜焼きさば・鯖寿司・冬の若狭かき・・・と美味満載。

奈良東大寺二月堂のご本尊にお供えする"お水送り"国宝めぐりも素晴らしいです。
今回の旅で私は、真言宗御室派・「明通寺」にお参りしてまいりました。静寂な中、ひとり静かに本堂でお坊さまのご説明を受けました。ゆずり木を切って、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体。国宝建造物の中はまさに旅の醍醐味を味わう空間でもありました。

帰りは小浜線に乗り家路つきました。
「食・農・環境フォーラム、地産地消を考える in 沖縄」
先日、沖縄に行ってまいりました。
「食・農・環境フォーラム、地産地消を考える」に参加いたしました。
(主催:琉球大学農学部、琉球新報社)
フォーラムは、全国の国立大学農学部長会議の沖縄開催を契機に、市民向けの食・農・環境を考えるフォーラムを開催し、食の安全や地産地消、地元食材の見直し、環境破壊の元凶とも指摘される農業の環境対策などを議論する・・といった趣旨でした。
私の基調講演は「おいしい!を育てる食卓」
パネルディスカッションはパネリストとして琉球大学の先生方と那覇高校2年の学生さん2名。JAおきなわの方。コーディネーターは前泊琉球新報社論説副委員長。
活発な議論がおこなわれそれぞれの専門分野のお話、現場の声としてJAおきなわ経営管理委員の発言など、大変勉強になりました。また若い高校生の率直な意見に、会場も大きくうなずいておられました。
会場には40名の那覇高校の1年生が、私の講演を「家庭科」の授業として聞いてくださるとのこと。大変緊張いたしました。
私も4人の子供の母親です。
人が生きていくときに必要不可欠なものとして、衣食住があげられますが、
中でも食がもっとも大切なものではないでしょうか。
食べ物で人は作られ、育まれていきます。
今、沖縄の食が揺れています。
高校生はそのような現状をどのように捉えてくれるでしょうか。
沖縄料理は豚肉を中心に肉類をヘルシーにしっかり摂取して、緑黄野菜、豆腐に代表される豆類、海草類をたっぷりと取るバランスの取れたまさに「長寿食」。そうした食生活が沖縄の健康と長寿を支えてきたのです。
しかし、残念ながら男性は過去形になってしまいました。男性の全国平均寿命は2000年には26位になり沖縄クライシスと呼ばれました。データを見ると、沖縄の長寿を支えているのは65歳以上の男性と女性で、中年以下の男性は短命化の傾向にあり、高齢者が伝統的な沖縄の食文化を維持しているのに比べて、中年より若い人たちは、欧米型食生活、肉が飛びぬけて多く、野菜類は伝統食に比べてぐっと少ない。炭水化物も少ない。こうした食生活を続けると、高血圧や糖尿病といった生活習慣病を引き起こしてしまいます。
これは大人だけの病気ではなく、心配されているのは子どもの肥満。運動不足、ジャンクフードが好きだから、三大栄養素は取り過ぎになり、副栄養素が不足してしまっているのです。
また、食事の在り方も問題になっています。
最近の食卓の実態を表すのに「こ食」という言葉があります。
まず孤独の「孤食」。
家族バラバラに食事を取ることが多い。
沖縄でも大家族から核家族化が進んでいます。
二番目は個人の「個食」。
家族で別々のメニューを食べる食事が増えている。家族が同じメニューを食べるのは、精神的に食育の面でも、とても大切だと私は思います。同じ釜の飯、という言葉がありますが、同じものを食べることで、家族の絆はより固く育てていくことができますし、また、子どもはいろいろな味を覚えることができます。味覚というのも、学習なんです。小さい頃、苦いものやえぐいもの、辛いものなどが苦手でもある年齢を経た時に、しみじみ、ああ・・美味しいとおもえるようになったりします。
記憶の積み重ねは大切です。
そして、三番目は固定的の「固食」。
「お母さん、休め」とか「ハハキトク」とか言われますが、聞いたことありますか?
オムレツ・カレー・サンドイッチ、焼きそば、スパゲッティー、目玉焼きの頭文字をとって「お母さん休め」。
ハンバーグ、ハムエッグ、ギョーザ、トースト、クリームシチューの頭文字をとって「ハハキトク」。
べつにカレーやハンバーグ自体が悪いというわけではなく、子どもの好きな、同じものだけを、つまり固定的なもの「ばっかり食べ」が問題なのです。
子どもの頃に本物の味の原体験を与えて、バラエティーに富んだ食品に親しむことの重要性を私たち大人は、真剣に考えなくてはならないところまできているということなのです。
では、単に昔の食生活に返ればいいのかというと、現実問題、それはなかなか難しい話。大切なことは、現代の食生活に日本伝統食の知恵を上手に取り入れて、バランスの良い食事を取り戻すこと。
そのためには、子どもたちに、食事が自分達にとってどれほど大切なものかということを教えることが大切。
"私たちのからだと心はつながっています"
食の良し悪しを判断できる力をつけてもらいたいと思います。
どう教えればいいのか。私は、「地産地消」がひとつの指針になるのではないかと思っています。地域で取れた物を地域で消費するのが食の基本です。それが、自然の摂理にかなっているのです。
最近、汚染米の不正転売問題が大きな社会問題になっていますけれど、誰がどこでどんな風に作って、どうゆう経路をたどってきたのか、それさえわかれば、汚染米が食用にまさか転用されることなどなかったはずです。
これが、トレーサビリティです。
農業には産業としての面だけではなく、自然環境を保全する役割もあります。
フードマイレージや食料を生産する過程で消費されるバーチャルウオーターの輸入を減らすことで、他国の水資源を消費し、北アフリカや中東を中心とする貧しい23カ国20億人以上の人たちが、生きるための水が足りない「水ストレス」を少しは解消できるはずです。
世界中で今も水不足が起きているのに、さらに今後、その不足状態が進む可能性が指摘されているのに、日本だけがこのまま水を買い集めていいわけがありません。
自分達の安全安心のためにも、日本農業のためにも、地産地消が理にかなっているというわけです。地産地消は古いどころか、地球上で求められている理想の食であることが分かってもらえると思います。
日本の食糧自給率は今や40%ですが、沖縄は99年までは40%を維持していましたが、2000年には33%に急落、04年からは30%も割り込み、今や28%であり、ワースト14位となっています。 とはいっても、お米やさつまいもなどの主食の低さが実は大きく影響していて、野菜は半分程度、肉類や水産物はほぼ足りているんですけれど。
この数字をこれ以上、悪くしてはいけません。
毎日のお買い物で、お母さんが必ず沖縄のものを選び、その度に「あ、沖縄のだから、これにしよう」と子供達に語りかけてください。
食べ物という身近なものから、子供達とともに農業や世界環境、自分の暮らし方を考え、そして行動していってほしいのです。
食べることは生きることであり、食べ物は命そのものであるということ。食べるという行為は、人間にとって、本来、もっとも愛おしい行為であり、食べ物によって私たちの体はつくられるということ。
そのことをぜひ、お母さんさちはお子さんの心と体に刻んでいただきたいのです。そうして育てられた子供たちは食べ物にたいしては、もっと謙虚に、もっと愛情をもって向き合えるようになります。
私は、沖縄の人たちは、きっと、地産地消のことや食べ物の大切さを知る子どもにと育て上げられると、実は、安心しているのです。
なぜならば、沖縄に通いはじめて40年がたちますが、沖縄の人々の底力を知っているからです。
・・・とこんな話をさせて頂きました。
那覇高校の皆さん、"ありがとう"
真剣な眼差しで一緒に考えてくださいましたね。
あなたたち世代が、これからの沖縄を担ってくださるのです。拙い話でしたが、熱心に聞いてくださり感謝いたします。そして、会場に足を運んでくださった市民のみなさま、ありがとうございました。

そして公設市場のみなさま!また、直ぐ戻ってまいります。あの時買った皮つき三枚肉、泡盛で美味しく"ラフテー"をつくりました。ノコギリガサミの味噌汁も最高でした!


日本酒で乾杯推進会議フォーラム
「乾杯の心・日本のかたち・日本の心」
先日、石毛直道代表(国立民族学博物館名誉教授)のもとフォーラムが開催され民族学者の神崎宣武さんのホスト、私は先生のアシスタントで参加させて頂きました。
「日本酒で乾杯推進会議」100人委員会には各界の方々がご参加なさっています。
昨年は歌舞伎俳優の中村富十郎さん・塩川正十郎さん、そして私がゲスト。今年は小笠原流三十一世家元 小笠原清忠さん、西舘好子さん、民族学者のクライナー・ヨーゼフさんがゲストとしてご参加くださいました。
この会から「日本酒からの手紙」というのがございます。
ニッポン人には日本が足りない、と言われています。
「和服をさりげなく着こなしてみたい」
「ほどよく美しい言葉で語りかけたい」
この国で育まれてきたよき日本文化の数々。私たちがほんの少し心がけるだけで、まだそれが取りもどせそうです。
日本酒を粋に飲んでみたいと思いませんか。
日本酒は、長い歴史の中でしなやかな感性とすぐれた技術で磨きあげられてきました。
甘くて辛い「妙味の酒」特定の料理を選ぶことなく、心身を癒し、ご縁をつなぎ、和(なごみ)に酔うお酒です。
あらたまった礼講からにぎやかな無礼講に移るとき、私たちは乾杯します。
「みなさまのご発展とご健勝を祈念して・・・」
何に向って祈るのでしょうか。カミ様?ホトケ様?ご先祖様?
ニッポン人の心の奥底に宿るものとふれあうとき、新たな力が生まれずはずです。
これからの人生をますます豊なものにするために・・・日本酒で乾杯!
そんな思いをこめての「乾杯の心・日本のかたち・日本のこころ」のフォーラムでした。

小笠原流家元からは椅子に座っての本来の座礼の作法を再現していただきました。今日的な乾杯は、明治期におけるイギリス海軍の影響を受けて習俗化したそうです。
「上野に於ける東郷大将歓迎会及小笠原流古式凱旋式の図」風俗画報第三二八号(明治三十八十一月号)「乾杯の文化史」神崎宣武より
このように見てみますと乾杯のかたちには世界中いろいろあり興味がわきます。
クライナーさんからは、ワイン文化圏とビール文化圏の違いなど。ビールグラスを掲げて、声高らかに、というのは学生達がグラスをギャチャンとぶつけながら・・・正式な作法とは違うもの。
「祈念して」という発声がきわめて日本的であること。当たり前に発していたことでも、ずいぶん違うのですね。
西舘さんには着物で乾杯の美しいかたちなど。
私たちはどういう乾杯の作法を伝えていくか、が昨年来の宿題でもありました。
会員の皆さまからのご意見ご提案もいただきました。
内館牧子さんは「乾杯は、おめでとう、うれしいの心、盃を高々と揚げようが目元までであろうが、揚げるという意識があれば常識的に形はたもたれるもの」
伏木亨さんは「参加者の健康や幸福のみを祈るのではなく、草木虫魚獣山川海すべてに捧げたい。その目線で乾杯!」
「祈念して」は「感謝して」「ありがとう」ととらえる方が多くいらっしゃいました。
ひとつの作法にまとめることはできませんけれど、やはり、目線で乾杯のかたちは、祈念なり感謝なりの心がこもった、しかも、美しくみえるのがいちばん素敵です。
鏡開きの音頭で会場の皆さまと乾杯!
日本人のもつ美しい、こうした文化は継承していきたいと願った一日でしたし、日本人であることに幸せを感じた一日でした。
輪島からはこの日のために素晴らしい漆器・お屠蘇の作品を仕上げていただきました。日本の工芸品の奥深さ、技に感激いたしました。

楠目ちづさん
先日素敵な華展にお邪魔してまいりました。
横浜の港が見えるホテルで一日だけの会でした。
"第十八回いけばなむらさき会華展" 家元 楠目ちづ


楠目先生は 95歳 大正二年のお生まれ。
相変わらず美しいお姿。初めてお会いしたのは今から21年前。
楠目先生の名を人づてに耳にするたび憧れはふくらむばかり。
花という、それ自体が天によって造られた物をさらに自らの手と感性で造形していく・・・しかも景気に走らず茶室の空間にピンと張りを感じさせるものに生けていく・・・そんなお仕事を続けられる先生に一度おめにかかりたいと念じておりました。
逢いたいと強く念じれば必ず会えるというのが私の信念です。
楠目先生とお逢いして初めてとは思えなかったのも、あまりにも多くの知己ある人々が先生と私の間に介在していたのです。
それもこれも花のご縁。
日本の美しさを花で表そう
自分自身を花で表そう
おしゃれを花で表そう・・・
満足できない茶花です
美そのものを幾世代もしみこませた気品と威厳を合わせもった方だと思いました。
楠目先生は母上と二人、小倉から逗子へ転居します。
絶対安静を必要とするほど病が進んでいたので気候も温暖な海辺の家に引越したのです。
はじめてお邪魔した楠目邸の玄関。
ハッと息をのむような静寂があり、そこには花はなく、花の気配だけが漂う壷が待っていてくれたのです。
部屋には古い常滑の鉢に庭のかえでを手折って生けてあります。
晩秋の陽がさしこんで美しい影をつくっていました。
空間全体が一枚の絵のようです。
「小さな茶室に入りますとそこは俗世とは一線を画した小宇宙です。静かに爐にはお湯が煮え、仄かに湯気がたなびいて風の気配を知り、ふと生けられた花に目がとまります。古い瓢箪掛に吾亦紅と女郎花、茶室に秋がふっと舞い降りたような景色です。利休の言葉"花は野にあるように"の真意に茶花の精神がかくされています。野に咲く花の真実をとらえなさい・・とでもいうのでしょうか。この解釈と実践に修業のすべてがあるという茶花」・・・とおっしゃる楠目ちづさん。
私などにはその極意など分かりません。
「茶室に生ける茶花の姿は二時間余りの存在です。心が洗われるひとときと共にあり、終わりと共に永遠に消えてしまう。はかなさと哀れさ。そこに花の美しさのすべてがあります」
先生は植物という自然と向き合うときたくさんの距離をもっていると思いました。接近してみる。手元で見る。かざしてみる。離れて、ぐーんと離してみる。遠くに見る。茶花の精神は花材の最も美しいところを引き出すこと、だからでしょうか。
私は野歩き、山歩きが好きでよく歩きまわります。
早朝に咲く花は早朝に、夕暮れの花は夕暮れに見てこそ最も美しいと思います。花一輪、枝一本、これは神様がお造りになったもの。
それらが天から授かった美を生かすように・・・。
3年前雑誌「いきいき」で先生はわざわざ箱根の我が家にお越しくださり、私の好きな器にそれはそれは素敵に花を生けてくださいました。

「どうしたら美しいかたちができるかと、今でも毎日悩むのですよ。そして、自分を表現できるようにならなくては、人まねでは、こころ打つものはできません。繰り返し悩み失敗する。そうして感覚は身につくものです」・・・と。
久しぶりにお逢いした楠目先生。透明なまなざしと優しい笑顔が白いおぐしにはえて本当に美しいのです。
30年先を歩んでいらっしゃる先生のお姿に、勇気づけられる思いでした。
私はこれから30年あります。
まだこれからたくさんの経験を積んで先生のように背筋を伸ばして生きていきたいと思います。
家の光 JA食・農オープンフォーラム in ぎふ
家の光 JA食・農オープンフォーラムinぎふ
「食のたいせつさ!農のすばらしさ」
が9月23日岐阜市内で開催されました。
今回が5回目で全国を回っております。
このフォーラムの趣旨は生産者と消費者という枠組みを取り払い、「食と農」に心を寄せる「生活者」が集い、お互いに学びあい、語り合い、刺激しあって交流を図ることが目的です。
私、浜美枝が第1回からコーディネーターをつとめゲストをお迎えし、語りあいます。

今回は俳優の永島敏行さん。
永島さんは大変農業に強い関心を持ち自ら実践し、子供達の「食育」にも積極的に取り組んでおられます。今回は「なぜ食料自給と地産地消が大切なのか」について話し合いました。
ご存知のように食料自給率は先進国のなかでも最低の40%。(カロリーベース)1965年には73%あったのにです。
戦後工業分野を発展させ、食料を世界中から安く買い上げてきたこと、食生活の変化など様々な要因があげられます。産地偽装や汚染米の不正転売などで、食が大きく揺れています。
「表示さえ信頼するにたるものでなくなった。一体、何を信じて判断すればいいのか」子どもに安全なものを食べさせたいと思う親たちの切実な声が全国から聞こえてきます。
日本の農業と食は、もうぎりぎりのところまで来ています。
けれど絶望するわけにはいきません。問題意識をもち私たち一人ひとりが変えていく以外には道は開けません。
会場を埋め尽くした方々からのご質問も多く寄せられました。
〇 子供達に安心できる食べ物をどのように選べばよいか?
〇 観光と農業は両立可能か?
〇 農業生産者をどのようにサポートできるか?
〇 日本で消費しきれないものを発展途上国の人たちに寄付できないか?
〇 今の日本では農業だけで生きていくことはできません。
このことに対して何ができるか?
等など・・・活発なご意見を伺いました。
永島さんも丁寧にお答えくださいましたし、私も思うことをお話させて頂きました。
生産者からのスピーチ。岐阜県JA女性連絡協議会の会長からは地元小中学校や保育園の給食に、手作りの味噌の供給「みそ玉一玉運動」など、食育のお話。広島県の校長先生が取り組まれた「ほんとうの食育」のお話など。
不要なもの、害するものを食べつづけたら、体が悲鳴をあげます。
体と心はつながっています。
体がほんとうにほしがっているものを食べていたら体も心も安心して、健やかに成長していくことができます。だから、お母さんには、子どもたちのために、何がよくて何を避けたほうがいいか、食の良し悪しを見分ける目を持ってほしいと思います。
食べるという行為は、人間にとって、本来、もっとも愛おしいものです。
食べ物によって私たちの体はつくられ、食べることは生きることであり、食べ物は命そのものです。食べ物にたいしては、もっと謙虚に、もっと愛情をもって向き合いたいと思います。
そんな思いを強くもったフォーラムでした。
フォーラムの後は地産地消ミニパティーが開かれ、永島さん・私の岐阜の食材によるレシピを岐阜グランドホテルのシェフが料理してくださり、またシェフのメニューもだされ皆さん大満足してくださったようです。

私のレシピは、「ドライトマト、ナス、菌床シイタケのキッシュ」「贅沢!飛騨牛のコロッケ」「ダイコンたっぷり炊き込みごはん」。
お腹もいっぱい・・・心も満たされ、生産者、消費者といった垣根を飛び越え、日ごろ感じていることはもちろん、食や農を巡る問題にも、生活者の視点から語り合えたと思います。
すべてに答えがでないかもしれません。
でも、問題を私たちが共有することで、
いつか必ず、灯りが見えてくると、私は信じます。
食と農のこれからに、希望が見出せますように、子どもたちに、本当の意味で美しく豊な未来をてわたせますように。
このフォーラムはそのような思いで開催しております。
次回は12月20日奈良で開催されます。
フォーラムの前に産地直売所"おんさい広場"に行きました。
岐阜市産の採れたて野菜農産物・花・米粉のパン・果物、地元大豆のこだわり豆腐など、朝採れたての野菜の美味しそうなこと!大勢のお客さんで賑わっていました。
「地産地消」は顔の見える関係・・・。
これからはこの安心感が大事ですね。

アンニョンハセヨ
韓国から帰国いたしました。
福岡・熊本・関西空港・中部空港・羽田からと総勢40名の女性達がソウルに集合いたしました。

この研修旅行も今年で15回目。
12回はヨーロッパでの民泊・グリーンツーリズム研修。
そして、韓国では農村女性グループとの交流を目的に、農家民宿やキムチ作り体験など盛り沢山の内容で、3年目の今年はさらに絆が深まりました。
澄みきった秋空の下、 コスモスの花が沿道に咲くなかソウルからバスで約1時間の場所にある八堂(パルタン)に向かいました。この八堂はソウル市民の飲み水となる川の水質を守るために有機農業が行われています。漢江(ハンガン)の上流域に位置しています。

車窓の景色はビル郡から農村風景へと変化し、ビニールハウス、緑の山々。
「わぁ~うちの故郷の風景に良く似ているわ」・・・との声も聞こえてきます。
私はこの八堂での「親環境農業」という言葉に興味を覚えました。
「新」ではなく「親環境」・・つまり環境に親しむってどういうこと?
一同を出迎えてくれた組合長「八堂 生命 暮らし」の代表は有機農業の団体と30年来交流を続け、日本にもしばしば訪れているとのお話。
農薬の使用を減らすため、土づくりからしっかり取り組み、堆肥を多く施用し、「農村の環境を守ることが消費者の安全」につながるとの思いから「親環境農業」に取り組んでいます。(生産者会員・約90農家 消費者会員・約1800人)
彼らの生産する有機農産物はソウル市内のスーパーで販売されています。
韓国もソウル市への一極集中で経済発展を遂げ、農家の高齢化も日本以上に深刻です。
そんななかで八堂には新規就農者も徐々に増えてきました。
「都会で仕事をしてきましたが、ストレスもあり、今は自分達の生きがいを見出し幸せに過ごしています」と語ってくれたのは30代後半のご夫妻。昨年は奥さんのお腹に赤ちゃんが。今回は可愛い女の子を抱っこしていました。
ここまで来るのは大変な道のりでした。
それを支えているのが、都会の人たちです。ソウル市民は八堂の農産物を買い支えているだけではありません。市民が負担する水道代には、「水利用負担金」という項目があり、水源地域の農業を支援するために使用されます。だいたい一戸あたり月に三千ウォン(300円)、農家が堆肥など購入する費用にあてられます。
私は市内の市場のおばちゃん、学生さん、若い女の子にも聞いてみました。
「八堂の活動って知っている?」と。
「知っているよ、私達の飲み水を守ってくれているんだ」・・・と。
八堂にダムができたのは、1973年。間もなく、行政によって周辺に住む農家に農薬や科学肥料の使用が規制され、八堂周辺の農家とソウル市には軋轢もあったと聞きました。
何が成功へと導いたのでしょう。
「都市の消費者との交流で農村が元気になり誇りがもてたこと」と組合長は語ります。
この気持ちが市民の信頼を得、また健康志向も背中をおしてくれているのでしょう。このような考え方は、日本も参考にしてすすめていくべきテーマではないでしょうか。
ソウル支庁前で「ろうそく集会」が行われたのは5月初旬からでした。米国産牛肉の輸入規制緩和策に抗議する人々の中には幼い小学生まで参加していました。
ソウル市民は国産、地場産にドライになりつつある・・と言われる中で「親環境農業」が今後さらに国民的に認知され韓国の「農・食」を守ってほしいと願いました。
八堂で栽培された有機農産物を使った料理は美味でした。
昼食後「冬のソナタ」のロケにも使われた美しい景観の南怡島を見学し、華川郡のトゴミ村では廃校になった小学校に宿泊。ここでは地元のお母さんたちが結婚式等の祭事に出される料理を作ってくださいました。

キムチ作りを体験し、昼食は村の食堂で冷麺を。北に近いからでしょうか、これが美味しいのです。ソウル市内では食べられない味。

そして、ユ・チョン村へと移動し、各民家へ別れての宿泊。食事をしながら韓国伝統芸能「サムルノリ」太鼓を打ちながら農家のお母さんたちが見せてくれました。お返しに日本からは浴衣を着ての盆踊り。素晴らしい交流がもてました。

農村滞在を終え市内に戻り、昼食は石焼ビビンバ。景福宮、仁寺洞など見学し、最後の夕食はサムゲタンとチジミでお別れパーティーを。

わずか5日間の旅なのに、農の問題に真剣に取り組んでいるという連帯感がベースにあったからでしょうか、さながら懐かしい同級会の旅のようでした。
「浜さん、私、この旅で一生つきあえる友人とであえたのよ」
「ひとりではやっぱり淋しいときがあるけれど、自分と同じ思いでいる友がいる。いつだって自分の味方になって励ましてくれる友がいてくれる」・・・そんな声も聞こえてきました。
日本の農業と食は、もうぎりぎりのところまできているといわれますが、彼女たちと一緒にいると、日本の農業と食が壊れるわけがないと思えるのです。
"この笑顔があるのだもの、日本は捨てたものじゃない"・・・心の中でそうつぶやいていた私です。
「食アメニティーを考える会」を立ち上げて18年。海外研修(15回)
食べるという行為は、人間にとって、本来、もっとも愛おしいものではないでしょうか。
食べ物によってわたしたちの身体はつくられます。
食べることは生きることであり、食べ物は命そのものです。
自分の身体にたいするように、食べ物に対してはもっと謙虚に、もっと愛情をもって向き合わなくてはならないのではないでしょうか。
生産者と消費者、そして流通に関わるすべての人々がともに同じ思いで食べ物を大切に思う時代こそ、"豊かさ"という言葉がふさわしいのではないかと私は思います。
韓国の旅
「食アメニティーを考える会」の第15回「韓国で農村女性グループと交流する研修旅行に9月4日から8日まで行ってまいります。ヨーロッパを12回、韓国は3回目です。
共通点の多い日韓の農業・もっとも近い国で、文化の共通点も多くあります。帰国したらご報告いたします。
私が韓国に通い始めて15年がたつでしょうか。
きっかけは津田塾大学の高崎宗司先生のご著書「朝鮮の土となった日本人」(草風館)を読ませていただいて、淺川巧の偉業を知ることができたのです。
このご本は民藝ばかりか、人はどう生きるべきかを知らされる本として、心に響きました。
韓国の山と民藝に身を捧げた日本人、淺川巧の足跡をわずかでもたどりたい・・・との思いから始まった旅です。最初はコスモスの咲くころでした。
旅先で知り合った、巧の墓をお守りしてくださる方、韓(はん)さんにお話をうかがいました。
「私は淺川巧とは会っていませんが、彼がいかに朝鮮を愛し、朝鮮人ばかりか、朝鮮の美術、言葉、生活、文化のあらゆることを大切にした人だったとゆうことは、みんな知っています。いろいろなお話を大人から聞いているからです。たとえば、韓国では人が亡くなったとき、三角形のお煎餅を配る習慣があります。淺川巧が亡くなった日、大勢の方々が見送りにきてくださったために、ソウル中の煎餅がなくなったという話は、未だに語り草です」
お墓を守っていてくださる韓さんは、この話をお父さんから聞いたそうです。
それほど、朝鮮の人々に敬愛された日本人がいたことを、私は書物で知って以来、気になり旅が続いております。
朝鮮白磁の美しさを目にして、まあ、キレイというのは簡単ですが、その美しさに秘められたものをたどっていくと、そこに関わった人間が現れてくるのです。
韓国は、確かに不況なんだなあと、目に見える様子も見えますが、日本だって同じようなもの。
生活は待ったなし。庶民は日韓ともども、いろいろな工夫でどんどん新しくなっているんですね。
ソウルの町には、新しいセンスのいい店がふえたなあと、思います。
ときには泣きたくなるほど、完璧なカタチを与えられた壷の前では言葉を失います。感動のあまり、動けないことさえあります。ソウルの美術館で、あるいはさりげない骨董屋の前で、最近できたと思われる道具屋さんでも、すぐれたカタチに会えます。
韓国、そして韓国の人々も元気いっぱい。日本も負けてはいられません。
暮らしの変化がいろいろ起きていますが、"美しく暮らす"気持ちだけは捨てたくないですね。
不況でも、"美の国"の文化はしなやかに健全"であってほしい・・・と願います。
今回は総勢40名の旅です。
トゴミ村、ヨンホリ村の皆さんが待っていてくれる・・・村の市場で真っ赤な唐辛子の粉を買いましょう。キムチの漬けかたも教えていただきましょう。
おみやげ話を楽しみにしていてくださいね。
「第4回東北サミット」
読売新聞東京本社主催の「第4回東北サミット」が19日、秋田県横手市で開催されました。
今年のテーマは
「発信!東北ブランド」。
約700人の来場者。6県の知事によるパネルディスカッション。
そして私は「東北―農の王国」をテーマに1時間の講演を致しました。
東京の蒸し暑さと比べて、やはり空気はおいしく、空は広く高く、遠くに見える山々の深い緑は爽やかでした。そうした東北ならではの、澄んだ環境が空気を循環し、浄化してくれるのでしょうね。
本論に入ります前に、先日の岩手・宮城内陸地震で被災なさった皆さまにお見舞いを申し上げました。土砂崩れで全壊したハウス、地震で隆起・沈降し傾いてしまった水田、畜産農家ではバルククーラー自動給餌機が破損したところもあると聞きました。それでもJA女性部の方々が避難所で自ら炊き出しを行い、地域の人を心身ともに元気づけてくださったそうです。
私はそのことを知り胸がいっぱいになりました。今、日本から失われつつある地域共同体が、こうした人々の手でしっかりと引き継がれているのだと感じさせられました。
農業は、太陽、水、土など自然のすべてがうまく調和してはじめてなりたつ生業です。
それだからこそ、地震で大きな被害をこうむってしまったのですが、自然の力を知っているからこそ、きっと、これからたくましく復興してくださるでしょう。
この困難を乗り越え、もう一度日本の農業のためにも立ち上がってください。
皆さま、がんばってください。
以下が読売新聞秋田版・地域欄に掲載された講演内容・要旨です。
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国際的な穀物高騰や中国の冷凍ギョーザ中毒事件などの影響もあり、東北の農業に対する期待はますます高まっている。東北は食料基地にほかならないからだ。
東北に、おいしくて豊かな食文化があることは、共通認識。例えば、青森ではリンゴやニンニクが有名だが、長芋もおいしいし、ゴボウやサクランボもある。東北にたくさんあるそうした特産品をもっと多くの人に知ってもらうには、ブランド化することが必要だ。
ブランド化の条件として、三つのポイントがある。まず、地域で長年愛された名産品であること。次に生活の中で日常的に使えるものであること。実際に使うために「どう調理したらおいしいか」などの情報も届けてほしい。最後に、一定の生産量があり、安定供給できること。
首都圏をターゲットにするのも大切だが、同時に、地元でブランドを確立することにも力をそそいでいただきたい。地元の人がこぞって選んで食べ、太鼓判をおすことこそが力になる。
東北には、美しくて懐かしい村や町が残っているが、住んでいる人たちは自分たちの暮らしの素晴らしさに気付かないもの。まず、「ここにこんな素敵な場所がある!」と声を上げて全国に知らせてほしい。
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このような話をさせて頂きました。
今やマーケットのカギを握るのは女性です。
車、家電、インテリア・・・これまでは男性が決定権を持っていたといわれるものまで、今や女性の意思をないがしろできない時代となりました。
ましてや、食卓に何を乗せるかという決定権を持っているのは女性です。
女性のことは女性に聞くのがベストです。
さらに、女性ならではのきめ細やかな視点が、ブランドを作る意味でも不可欠だと、私は思います。これまでも、長年、農村女性たちと語りあってきました。そうした農業に携わる女性たちと話すと、いつも感激することがあります。
それは彼女たちが、命の輝きを暖かく見守るような優しさで農業や食のことを考えているということ。
女性という性は、命をはぐくむ性だからでしょうか。
自分自身が家族に安心して食べさせたいと思うような、確かなものを、作って、販売したいという気持ちが・・・男性にこういっては申し訳ないのですが、女性のほうが強く思っているような気がします。
そして・・・
グローバルに考えることはもちろんですけれど、大切なことは、足元をきちんとみることです。
いってみればグローバルに考え、ローカルに、ドメスティックに行動することだと思います。
それが、ブランド化するために必要不可欠なことだと、私は思います。
困難なことも多いでしょうが、あせらずたゆまず、一歩一歩、大地をふみしめるように歩んでゆきましょう!
横手から奥羽本線にのり大曲、新幹線に乗り換え箱根の山に戻り、皆さまの真剣なお顔を思い出しました。
「食べることは生きることにつながる」心にとめておきたいですね。
尚、本日(29日)の読売新聞全国版にも掲載されております。
"もう一度 お逢いしたい"・・・貴女に。
立秋もすぎ暦の上ではもう秋。
雨かと思えばカッと晴れ間がきたり、突然の大雨で被害が出た地域もありで・・・。被害が出た地域の皆さまにはお見舞い申し上げます。
お盆を迎えると、ふと、あの人を思い出します。
ああ。あの人にもうお手紙を書く住所はないんだわ。そんな思いが唐突に私をおそって・・・。なぜか、ものすごく悲しくなります。
その人は、森瑤子さん。
現代の女性を魅了した作家・森瑤子さんは1993年夏に亡くなって、15年も経つんですね。
あの日、東京・四谷の聖イグナチオ教会の裏側の小部屋の棺に安置され、あのいつものあでやかな瑤子さんとは違い、お化粧もなく、少女のような透明な肌にモナリザのような穏やかな笑みを浮かべた瑤子さんの最期は、いえ最期というより、私には始まりではないかと、そんなふうにも見えたのです。
たった数分間のお別れでしたのに、たくさんの思い出が頭の中を駆け巡り、いくつかの旅を思いだしました。
瑤子さんはいつも口癖のように、出会いって不思議ね、と仰っていました。
「人はいつも会うべくして会うのよ、偶然じゃないわ。あなたとだって、きっと今日、こうして会うように定められていたのだから、出会いを大切にしましょう」そうおっしゃって、お会いしたその瞬間から、もう何年来ものお友達のように接してくださったのです。
私にとって忘れられないのは、瑤子さんの与論島の別荘をお訪ねしたときのこと。
瑤子さんはお仕事をかかえていて、一日遅れで与論にいらっしゃるとのことでした。私と作家のC・W・ニコルさんご夫婦とで先に与論島に行きました。与論島の海の青さはそれはそれは美しく、引き込まれそうになるくらい魅力的です。二コルさんが先に潜り、私も水深7~8メートルほど潜ったとき、私はその海の中に見つけたのです。
誰かが、彫刻を置いていったのではないかと思ったほどの、2メートルはあろうかという女性の胸像に似た岩を。その横顔がなんとも瑶子さんにそっくりだったのです。翌日、瑤子さんにそのお話をすると、瑤子さんは「まったくしらないわ」とびっくりされて「一度見たいものね」とおっしゃいましたが、再び海中のその地点に私は戻ることができないと思いました。
その次の夜。
彼女の別荘の続きにあるプライベートビーチで、真夜中。月が煌々とあたりを照らす海で泳ぎました。水着をつけず。
瑤子さんはキレイなクロールで静かに水をかき分け、ときおり肩や背中が月明かりを受け輝いて見えたのが、未だ私の目の中に残っています。
海から上がり、夜更けまで二人でぽつりぽつりとお話をしました。瑤子さんは自分のことはさておいて、必ず「あなた、どお?」とまず、こちらにホコ先を向けます。つい甘えて、おしゃべりして、じゃあ、もうやすみましょうとなるのです。
ふと気づくと、私は何も瑤子さんのお話を聞いてさしあげられなかった、後悔したものでした。繊細で感受性に富んだ感性の人であったし、揺るぎない人という認識でしたから、彼女の内心に抱える苦悩など思い至らなかったのでした。
今なら・・・少しは大人になれた私なのに。
優しさのかたまりのような森瑤子さんでした。
私が、自分探しのエッセイ「花織の記」という本を書き上げたとき、瑤子さんにあとがきをお願いしたことがありました。お忙しい売れっ子作家にあとがきをお願いするのはためらわれましたが、ふたつ返事で書いてくださることになりました。締め切りぎりぎりの真夜中、我が家のファックスがカタカタと鳴り、瑤子さんからのファックスが届きました。
瑤子さんはワープロを使いません。特徴のある太字の万年筆で原稿用紙の升目からはみ出るようではみ出ない、躍るようなその文字が原稿から立ち上がるような気がしました。
その文章を引用させていただきます。
時に私は、講演会などで一時間半も人前で喋ると、身も心も空になり、魂の抜けた人のように茫然自失してしまうことがある。あるいは一冊の長編を書き上げた直後の虚脱感の中に取り残されてしまうことがある。そんな時、私が渇望するのは、ひたすら慰めに満ちた暖かい他人の腕。その腕でしっかりと抱きしめてもらえたらどんなに心の泡立ちが静まるだろうかという思い。
けれども、そのように慰めに満ちた腕などどこにも存在しないのだ。そこで私は自分自身の腕を胸の前で交錯して、自分で自分自身を抱きしめて、その場に立ちすくんでしまうのだ。
おそらく、美枝さんも、しばしばそのように自分で自分を抱きしめてきたのではないかと、私は想像する。今度もし、そんな場面にいきあたったら、美枝さん、私があなたを抱きしめてあげる。もし、そういう場面にいきあったら。
私にとって、この文章がお別れの文章になりました。
15年がたつのですね。
もう一度、お逢いしたい・・貴女に。
今でも町でお帽子をかぶった女性を見かけると、ハッとします。帽子が似合う人でしたから・・・